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衛生観念の保存のススメ

「衛生状態の保存」というのは難しい。その人がどういう環境に置かれているか、つぶさに記録する必要があるのに、そうであることが当たり前な文化圏内だと、あえてわざわざ記録しようなんて思いつかないからだ。自分が身を置く環境を一つの基準として、それが地の果てまで行っても、時代を超えても共通であると、そんなことはあり得ないと知りつつも無意識に思ってしまう。

例えば我が家には人間以外の生物は限りなく少ない。少なくとも目に見える範囲では、たまに小さな羽虫が2週間に1回迷い込む程度である。埃はなるべく除去するよう、日々ルンバが粉骨砕身しているが、壁の下部にぐるり貼られた巾木の上に気が付くとうっすら埃が積もっているのが目下の悩みである。断乳してもう何年も経つのに、子供部屋に足を踏み入れるとほんのり乳臭い気がする。

こういう生活環境を念頭に置いて本を読むと、思いがけない環境がそこに広がっていることを突き付けられ、その度にのけぞってしまう。例えば2024年6月に文庫化され大きな話題になった「百年の孤独」
日本から地球の裏側の架空の町が舞台だが、目下その生活は虫や熱をはらんだ埃との戦いである。

その背中にびっしり蛭が貼りついているのをサンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダが見つけた。血を吸い尽くされてはというので、燃えさしの薪で虫けらを1匹ずつ引きはがした。床を乾燥させ、ベッドの脚を床から離し、再び靴で歩きまわれるようにするために、溝を掘って屋敷の水はけを良くし、ひき蛙や蝸牛を追い出さなければならなかった。

ガブリエル・ガルシア=マルケス.百年の孤独.新潮社,2024,p.479

とたんに部屋は、塵や暑さ、白蟻や赤蟻、紙魚などの害にさらされ始め、本や羊皮紙にひそんだ知恵もおがくず同然のものに変質しはじめた。

同 p.539


現代に生きる我々ときたら、ハエ以上の大きい闖入者がテリトリー内に現れたら、叫び散らして大騒動になるというのに、ブエンディア家の皆さんは、折々の気力体力経済力次第でその他生き物との同居を許したり、かと思えば策を講じて徹底的に除去したりする。

そして皆様、お気を付けください。紙魚(しみ)ってなんじゃいと思い軽い気持ちで検索し、出てきた結果に一瞬意識が遠のきました。グーグルはあらゆる知識を提供してくれるので本当にありがたいのですが、虫検索だけはどうにかならないのだろうか。子供に「この虫なあに」とせがまれても恐ろしくて検索できないのよ。第一画面には「図鑑掲載の絵」とかにしてくれないだろうか。いちユーザーからの強い願いである。

話を元に戻すと「人間以外の生き物は基本的にいない、概ね清浄な住空間」という慣れ親しんだ前提で作中の文章を脳内再生していると、突如として存在感のある、人間に直接的な害を及ぼす虫やら生き物が画面の中に現れるので、慄くのだ。

自分の住環境というものは他者、それはなにも同じ時間を生きる相手だけではなく、未来を生きる人々にとっても「在りし日」を推測する人にとって大きな情報になるだろう。
きっとこのままいくと100年後の未来に生きる彼らは、生活圏に虫一匹居らず塵の一つもレーザーで撃ち落とす清浄な空間に暮らしているだろうから、今この瞬間の、衛生的な観点からみた環境をつぶさにしたためることは我々の義務とも言える。

私の家。今リビングでこの文章を書いているが、目に見えるところではサーキュレーターが1台、パソコンを入れる袋と、夫の通勤カバン、子のリュックに、私のスリッパ、おしりふき、子の水筒などが床に置かれている。何より洗濯乾燥機から洗いあがった、2~3日分の洗濯物の山がリビングの真ん中に鎮座している。
隅にある深緑色の3人掛けソファーの上には読みかけの本2冊と、機種変更のために取り寄せたスマートフォンがまだ段ボールから出されていない状態で乗っている。
消毒液を家の中で使うことは皆無で、冒頭に記載した通り、平日は毎日ロボット掃除機が清掃してくれるが、土日はその限りではない。清掃シートを平たいフローリング用のモップに着けて、床を拭くのが週に1回あるかないか。
床は板張りで、防音のためにコンクリートと板の間にクッションが敷かれている。そのため初めて我が家に遊びに来た人はその床の柔らかさに驚く。表面が木ではあるが、クッションが沈み込むことで現れる柔らかさらしい。
リビングには大理石柄の大判のクッションシートが計12枚敷いてある。子の安全と、審美的な観点からこの品となった。
冷蔵庫やキッチンの換気扇の上に埃が積もるが、夫が休みの度にハンディモップでせっせとはらっている。子供の食べこぼしは毎食後ウェットティッシュで拭かないとそのままこびりついたり、ルンバが吸い込んで後のゴミの回収時にすさまじい臭気を放ったりするので、ダイニングの床だけは四つん這いになって丹念に拭き取らないといけない。当然ながら見渡す限り1匹の虫もいない。

街の様相はどうか。すべての道は舗装されている。多くの大小さまざまな車が行きかい、自転車やバイク、シェアする電動キックボードも勢いよく目の前を通り過ぎていく。道幅は大通りは2車線で、余裕をもってすれ違えるほどの歩道がある。時間帯にも依るが人通りは少なくない。老若男女行きかっている。
道にゴミはほとんど落ちていないが、公園の植え込みにはタバコの吸い殻がこれでもかと落ちていたりする。
空を見上げると、街路樹は短く刈り込まれ、夏の盛りにも枝葉を広げることなく幹の主軸にちょぼちょぼと緑の葉をつけるのみである。等間隔に立てられた電柱からは平行に張られた電線がのびている。
夕暮れ時になると飼い犬の散歩をさせている人をよく見かける。常日頃清潔に洗われて欠かさずブラッシングもされているであろうフワフワな犬たち。犬柄(?)がよく表れているような幸せな笑みを浮かべながら軽やかに歩き去っていく。犬の糞が放置されることはまずない。粗相についても軽く水をかけて去っていく、出来た飼い主の方が多い印象。
町中は基本的に無臭だが、時折バイクから排気ガスの匂いがする。飲食店からの焼けた牛肉の匂いは横断歩道の向こう側まで運ばれ、食欲をくすぐる。

そんな日本の風景とは対照的だと思ったのはインドの街並みだった。
特にカルチャーショックだったのはバラナシの街だった。ヒンドゥー教きっての聖地をこんな風に表現するのは大変失礼な話なのかもしれないが、バラナシの駅に降り立ってまず慄いたのは「街がトイレの匂いがする」ことだった。列車を降りて直ぐ寄った駅のトイレと同じ匂いが街中に漂っているのである。
玄関口となる首都デリーでも、タージマハルのあるアグラ、ピンクシティで名高いジャイプルでもそんなことはなかったから、バラナシ特有の現象かもしれない。それか、立ち寄った駅トイレ内の「何か」が私の鼻腔内に張り付いてしまった可能性もある。えらいところに来てしまったと思いながらオートリクシャーでバラナシの中心地を目指して走ってもらうと野良犬、野良猿、野良牛があちらこちらにいる。
とくに牛は悠然と細い裏路地に鎮座し、多くの「落とし物」をするから、それを幾度となく踏んづけてしまった。その度に近くの人が「石でこそげ落として」「近くに水道がある」と口々に教えてくれるのがありがたい。
ある日にガンガー(ガンジス川)沿いの切り立った建造物の陰にちょうどいい四角い石があったので座ろうとすると周囲の人に慌てて止められた。何の表示もなかったが、男性用のトイレになっていたようで、何の気なしに眺めていると、短い時間で幾人もの男性がその石めがけて小の用事を済ませて去っていった。危ないところであった。

インド人の友人ができて一緒にリクシャーに乗っていると、宿に持ち帰って処分しようとまとめていた袋を「それはゴミか?」と確認するや否や、リクシャーから放り投げてしまった。「ポイ捨て?!」と狼狽える私に彼は言った、「ゴミ掃除する人の仕事を奪ってはいけない」と。
政府が否定しているとはいえ、ゴミ捨てに従事するカーストというものが厳然とあり、彼らの果たすべき役目がなくなってしまうから、敢えて仕事を用意する…。広大なインドを人の手によって全て清めることは出来ないとも思えたが、確かに明け方に街を歩くと、猫車にゴミを山と乗せた人々をたくさん見たから、理にかなっているのかもしれない。人口の多いインドが如何に食い扶持をより多くの人に持たるかを考えた末の「常識」がポイ捨てなのだった。

牛糞にマニカルニカガートで行われる火葬、道端に捨て置かれたゴミ、青空トイレ、山と行きかうバイクやオートリクシャーから漏れ出る排ガス、そうした「刺激臭」のために私の鼻はどんどん利かなくなっていった。
インドのいいところは、清浄な日本だとどうしても際立ってくる自分の体臭を気にしなくていいところである。それはインド人も同様のようで、2人の顔見知りが前日も着ていたそれぞれのシャツを交換して翌日登場した時は度肝を抜かれた。「それ2人とも昨日着てたやつ…?」と恐る恐る聞くと「こうすれば自分でたくさん服を持たなくてもおしゃれできる」とのことだった。旅行した当時は酷暑期ゆえ、日中の気温は摂氏50度まで上がる。インド人も日本人も関係なく滝のように汗が流れるわけだが、その匂いなんて気にしない。なんて鷹揚なのかと感心した。インドではデオドラント製品なんて都市部を除き、ちっとも売れないのではないか。
そんな環境で唯一匂いをかぎ分けられたのは、お香がたかれた時だった。アジアン雑貨屋で売られているインド産のお香がなぜあんなにも苛烈な匂いなのかを思い知った瞬間であった。周囲の環境に負けないくらいかぐわしい香りを撒きちらすためには、あれほどの強さが必要なのだ。

宿泊した部屋は個室ではあるがベッド一台きりでトイレやシャワーがついていたら御の字、大抵は共同、という安宿ばかりだった。どの部屋も清潔に保たれていたが、むき出しのコンクリートの床、寝台の上に薄い布団が敷かれて枕も掛け布団なし、といった部屋ばかりだった。
クーラーが付いていたのは初日の宿だけで、あとは天井にファンが回るのみの部屋だった。ファンと天井をつなぐ軸はファンが回るたびにゆらゆら揺れ、これがはじけ飛んで落ちてきたら死んじゃうよなぁと思いつつ毎晩いつの間にか眠っていた。
2023年10月から年末にかけて国内外でひと騒動になった南京虫だが、旅行時も本など読んでその怖さは知っていたので、入室後に目視で確認するのは欠かさなかった。幸い部屋の中の虫に悩まされたことはなかったが、部屋の隅に巣くうクモなどは益虫、益虫、と自分に言い聞かせ同居した。日中あまりの暑さに水をかぶって濡れた髪をろくに拭かないままベッドに座ってぼんやり窓の外を見ていると、猿が隣の建物の屋上づたいに追いかけっこしているのが見えた。

こうして日本とインドを比べると、道端に捨てられたゴミに群がるハエを含めて、「誰にも管理されていない生き物が身辺にどれだけ多いか」が大きな違いだと思う。野良牛が車やオートバイに交じって泰然と歩いていたり、野良犬がマンションのエントランスなど日陰の冷えた石の上で涼をとりながら爆睡していたり、ということは日本の都市部で未来永劫絶対にありえないだろう。どちらがいいか、ということではなく(向き不向きはあると思うが)、同居または共存共栄の方向か、管理または排除の方向かといった、方針の違いに過ぎない。

同じ時代を生きていてもところ変わるだけでこれほど違うのだから、何十年とたった後に想像できないのはどうしたって仕方ない。そもそも、同じ日本であっても人や家庭によって衛生観念というのは異なるだろう。だからこそ、あらゆることをつぶさに書き尽くしているとすら思える百年の孤独はおもしろいし、ありがたい。もっと皆ガルシア・マルケスのように今暮らしている環境についてつぶさに書いてくれたらいいのに、と思う。

私はだいたい前述のような感じなのですが、皆さんはいかがですか。他の人の、ほかでもないあなたの衛生感、暮らしている環境が知りたい、読んでみたい。




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