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【創作】不在の形で残るもの

気が狂いそう。
頭上に浮かんだ言葉が一言一句そのまま耳に流れ込んできて、クリームソーダが喉に詰まった。

鮮やかな五色のクリームソーダが目玉のこの喫茶店は普段から行列ができる繁盛店で、平日昼下がりのいまも座席は埋めつくされている。さざめき声と店員が注文を取る声に今どき珍しい有線放送が混じって、なかなか賑やかである。初めて入る店だった。静かすぎる場所は嫌だったから、結果的にこの店は都合がよかった。

目の前に彼女がいる。彼女が僕を見ている。彼女は僕の言葉を待っている。

彼女のいちごミルクと僕の青いクリームソーダが卓に届くのを待って、たった今目の前の女はこう切り出した。
「そういえば彼氏できたよ。」
ついに来た、この時が。この言葉を聞くまいといろいろな手を尽くしてきた。しかしコンスタンティノープルは陥落し、iTunesはサービスを終了し、いつか人類が地球を捨てる日が来るのだ。

有線っていうのはずいぶん昔の曲も流すんだね。
彼女の困ったような期待するような視線から逃げるように手元のアイスクリームがソーダに溶けるのを見つめ、やっと口を開くと言葉がこぼれた。二人の間の騒がしい沈黙のなかで、実に間抜けな響きを持った。何?と言わんばかりに眉をひそめ、大げさに口を開いて彼女はストローをくわえる。整ってはいないが無造作には見えない眉毛が彼女を意志の強い人間に見せる。彼女の美点が変わらずそこにあることに機嫌を直し、僕は彼女の告白に付き合うことにした。

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よけておいたクリームソーダのさくらんぼをフォークで押さえて、パンケーキナイフで皮を剥こうと試みる。話すことが無くなると手元を絶えず動かしたくなるのが僕の悪い癖だ。紙コップを極限まで畳んだり、ストローの包みで箸置きを作ったり、マックのドリンクカバーの出っ張りを押しつぶしたりしたくなる。それは貧乏ゆすりと一緒だね、と彼女が珍しく鋭い指摘をした時、僕は特に気まずい心地もせずに、この指摘がただの指摘として二人の間にただ共通に認識されていることを妙に嬉しく思った。お互いがどんなに無言のルールを外れても、どちらも気に留めないところが居心地よかった。

しかしさすがに気まずいと思ったのか、対沈黙・最終兵器よろしく彼女はためらいがちに再び切り出した。
「なんかさ、彼氏すごい優しいし話もできる。」
「うん。」
「顔も好み。」
「ふうん。」
「でもさ。」
「でも?」
「でも……うーん。」
「そんなに言いづらいこと?」
「…。」
「……。」
「お父さんが手が出るタイプの人みたいで。」
「ああー…。」
「いや、お父さんと彼氏は別だし、彼氏が誰かに手を上げてるの見たことないし。でも彼氏はお父さんからそういうのを受けて育ったみたいで。もちろん私に手を上げたこともないけど、でも受けた愛情の形は人に与える時にもそのまま出るって言うし。」
「自分がされて嫌だったことはやらないって思う人もいるんじゃない?」
「彼氏も、対話をせずに暴力に頼るなんて自分は絶対しないって断言するんだけどね。でも彼氏も私も教員資格のコースをとってるんだけど、その授業の後、体罰は仕方ない部分もあるって私に漏らしてきて、私それで急に怖くなっちゃって。将来は子どもが欲しいねなんて話もしてるんだけど、正直そんな人と子どもなんて育てられるのかなあ、みたいな。」
え、将来の話とかしてるのか。ふーん。
「私はとりあえず学生の間付き合える相手が欲しかっただけなのに、大ごとになっちゃった。」
「そう。」
いやその恋愛スタンス、初耳なんだけど。しかし踏み込んだはいいが、後に引けない話になってきた。

やっぱこの話やめようか、と言う彼女を遮って、僕は話を引き受けた。なにせ、彼女が自分の身の上を話すなんて今まで無かったことなのだ。僕たちはいつも上澄みで話をしていた。楽だが、彼女のことも自分自身も分からなくなる時間だった。人生をかけて向き合う関係にはついになれなかったが、今この瞬間だけは彼女の心に飛び込めるのかもしれない。耳が熱を持ち始めるのを感じながら、僕は慎重に言葉を選んだ。

「ねえ。愛情は人を支える。人への優しさの源になり、自分にも余裕を持たせる。でもその愛情が多少なりとも歪だった場合、難しい問題を連れてくる。周囲の人を困らせたり悩ませたりする。」
彼女は真正面から食いついてきた僕に少したじろいだ。
「今は問題が表に出てこない。でもいつか必ず現れるよ。さっき話してた通り。」
「うん。」
彼女は真剣な面持ちになって少し姿勢を正した。
「例えば子どもが物心ついた頃、知らないところで子どもを不用意に傷つけるかもね。子どもが物を分かり始めたら、父親を信じられなくなったり、これまでの愛情にまで疑問に持ち始めるかもしれない。そしてその子が親になった時、同じことが再現されるかもしれない。」
「うん。」
「その時、子どもは苦しむ。」
「そうかも。」
「パートナーはいいよ。別れたら他人だから。でも、子どもは父親と永久に切れない関係でつながれてる。」
「家族は家族をやめられないってことでしょ。」
「そう。それにたとえ距離を置いたとしても、家族は不在の形で心に居座り続けるんだよ。家族からは逃れられない。」

彼女はうつむきがちに考え込んでいるようだった。しかしぱっと顔を上げると、にやつきがそのまま現れたみたいな声で尋ねた。
「……最後のそれさあ、誰の言葉?」
「?」

今日初めてまともに彼女と目が合った。さっきまで目の中にあった翳りは消え、挑戦的な、そして愉快そうな目をしていた。
「...…アリ・アスターだけど。」
なんなんだ。

「でも私はさ。」
「うん。」
彼女は言葉を繋ぎ始めた。
「その人を信じたいとも思うんだよね。」
「?」
「私は自然と突いて出る思考や振る舞いをちゃんと見つめて省みることができる彼の理性や思慮深さが好きなんだ。」
なんなんだ。なんなんだ。さっきの神妙な話はどこへ行った。
「それに向き合って、進んでなんとかしようとする姿がかっこいいと思うんだ。」
「そんな人とゼロから家族を構築したい。不在を恐れるんじゃなくて、勇気を持って生み出したいの。」
なんだもう。ただの惚気じゃないか。

「なんかシリアスになっちゃった。こんな話がしたいわけじゃなかったのに。」
こんな話がしたかった。正確には、ずっと彼女にこんなふうに真剣に話しかけたかった。そして彼女の話に打ちのめされたかった。こんなふうに。

よく考えるように。
4歳の子どもに話しかけるようにおどけて、若い王女に言い含めるようにうやうやしく、僕は彼女にそう言い聞かせた。この際いっそ、負け惜しみでも構わなかった。

彼女はすでに伝票に手を伸ばすところだった。

アイスクリームはとっくに溶けてソーダと混ざり切っている。さくらんぼの赤の不在が、様変わりしたクリームソーダの有り様を僕の目に訴えかけていた。

店を出たら彼女の連絡先を消そう。写真も削除しよう。受け取られることがない思いと共に捨て去ろう。
不在をもって彼女を覚えていようと思った。

(了)

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