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愛について、思い出して考えて掴んだ日のこと


この前、お昼頃なんとなくつけていたテレビに三輪さんが映っていた。
ふと見ようと思って音量を上げた。

「愛とはなにか」

こんなテーマで話していた。

そういえば、大学の時の授業で「愛」についてグループで話し合うというものがあってそれを思い出す。

その時のわたしは、愛がなんだか知らないし恋と愛の分別すら付いていなかった。そんな小娘と小童たちが突然「愛」について意見を交わすのだから当然に薄っぺらいことしか出てこなかった。
当時わたしには付き合いたての、本当に付き合いたての彼氏がいてその人のことを思って絞り出した意見が「いま何をしているのか何を食べているのか何を目にしたのか何を耳にしたのか、その人の心を動かしたものは何か気になって知りたいと思うこと」だった。

今だって、「愛」が何かはっきりとわかったものじゃないけれど、確実にその意見には真実の重みはないと分かる。それくらいは分かるようになったと言うべきか。

じゃあ、三輪さんが語っていた「愛」とは。

「自分本位ではなく、相手本位になること」

その言葉を聞いた時にわたしは、恥ずかしくも「またか」と思った。よく言われていること。映画でだって、ドラマでだって、本にだって書いてあること。そう思った。

そうしたら、三輪さんは続けてこう話した。

「あなたは恋と愛の違いがわかりますか」

尋ねられた40代くらいのアナウンサーは答えていたけれど、三輪さんは笑って話す。

「あなたが相手と待ち合わせをしている。相手は遅れている。

  なんで遅れているのか。連絡もない。あなたは怒って帰る。
   これが恋。
  
 しかし、
  どうして遅れているのか。何かあったのかもしれない。
  すごく心配だ。何かあったらどうしよう。
 するとそこに彼が来る ”ごめん、遅れてしまった”
 あなたは思う。
  彼に何かあったわけではないのだ。よかった。本当によかった。
  ”ううん、顔を見れただけでもよかった。わたしも今来たところだから大
   丈夫” 
 と優しい嘘をついてあげる。

   これが愛。」

こう話していた。
三輪さんのこの言葉を聞いて、わたしの中で燻り続けていたある小さな思いが昇華されていったように感じた。
ずっと後悔していたあの日のこと。彼にしてしまったこと。彼にされたこと。
わたしが彼に対して「愛」だと確信して信じて縋っていたあの思いが「恋」だったのだと。そう気づいたとき、彼への燻り続けていた思いがふっと軽くなっていった。
でも、あの日の思いもしたことも後悔するわけでもなく、ただ受け入れてその記憶と経験を両手に包んで今を生きようと思うだけである。

誰かの言葉が、わたしの過去とリンクして、自分のその記憶にストンと落ちて浄化する。気づく。知る。

掴んだつもり かもしれないけれど、そういった違う視点からソレをみて気付く余裕ができたことは良いことだ。

三輪さんの言葉に救われた出来事でした。
 


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