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伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(第Ⅱ部第二章)にて

今回の記事は、過去の記事「伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(第Ⅱ部第一章)にて」のつづきです。ポール・ヴァレリーにとって、「時間のあり方」は、「世界と主体の出会い方」に言い換えられています。

ヴァレリーの時間論は、その出会い方の分析へと進みます。彼が見出す時間の「持続」は、アンリ・ベルクソンの「持続」よりも具体的です。

持続が生み出されるのは、世界と主体のあいだの「ずれ」が意味を持つ場合である。つまり持続とは、「予期されているものがない」という状態において生まれる。ひとことでいえば、それは「抵抗」ないし「阻害」に会うという感覚である。――p.168

―― 第Ⅱ部「時間」 第二章「抵抗としての「持続」」

そこで、対象の「ずれ」に「注意」する主体の側に、可逆的な体勢が組み立てられるとヴァレリーは述べます。注意が持続の創造であると・・・。

 非―注意の状態における変化は、夢の状態を考えると分かりやすいが、不可逆である。起こった変化をもとにもどし、はじめの状態にかえることはできない。しかし注意においては、要素が保持されているために、変化をさかのぼることが可能である。たとえば先にもあげた針の糸通しにおいて、意志は、目に見える右手の位置が左にそれすぎたと判断したならば、その現実に鑑みて、手を正しい位置に戻す。行為の調節とはこのように、過去の試行の結果を現在へとフィードバックさせながら、現実との関係のなかで身体的諸機能の結びつきを細かく修正することである。注意とは、「不可逆なものから可逆的なものへ移行する試み」なのである。「私たちは、相当程度で――偶然が生み出す純粋なる連繋によって埋められ、占められ――構成されている。そしてそのうちの九割九分、私たちは脈絡のない対象と出来事の寄せ集めしか見出さない。私たちは、私たちの生とは、この無秩序なきらめきであると言う。この無秩序なきらめきこそ法則なのだ。この法則に対抗して――点的ないし線的な注意がある」。
 注意が持続の創造であるというのはこの意味においてである。「注意とは、明確なもののなかで延長し、連続させようとする努力である」。それは偶然的で無秩序な私たちの生のなかに、可逆変化が成り立つ特殊な時間的領域を作り出す。「注意は、一定時間内の総和を目指す――注意と持続は――名前が違うだけだ」。これはヴァレリーも整理するように、分割不可能でむしろ「生きている時間」に近いベルクソンの持続概念の規定とは全く異なるものであろう。ヴァレリーにとって持続とはむしろ「自然な流れを宙づりにすること」である。そして詩とは、ひとつの持続の創造であるとヴァレリーは言う。装置としての詩が読者に「より完全な行為を要求する」とき、詩は読者をある持続のなかに巻き込んでいる。「詩的な《領域》の創造。〔それは〕持続の領域の創造〔である〕――緊張と引力を備えた。斥力もまた〔備えた〕」。――pp.175-176

―― 第Ⅱ部「時間」 第二章「抵抗としての「持続」」

ただ、この第Ⅱ部「時間」の第二章「抵抗としての「持続」」を読む限り、ヴァレリーの注意と持続は、ベルクソンの「純粋持続」に到達していません。「記憶イマージュ」のあり方を述べているように思います。

以上、言語学的制約から自由になるために。つづく。

この書物に触れる記事は六つあります。次の「伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』にて(錯綜体)」という記事が、それらのまとめです。