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伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(第Ⅱ部第一章)にて

詩人ポール・ヴァレリーの時間論が、哲学者アンリ・ベルクソンに近い。
今回の記事では、第Ⅱ部第一章にて、「時間のあり方」に注目します。

時間を距離に変換し、操作可能な対象だとみなしてしまう考え方に反対するヴァレリーの態度は、一見すると、空間と時間の混同を徹底的に批判した同時代の哲学者、ベルクソンの主張に重なるものと見えるかもしれない。しかしヴァレリーはベルクソンとはまた別の道を進む。ヴァレリーにとって重要なのは、時間と空間を峻別することではない。ヴァレリーが注目するのは、時間が比較不可能であるということ、そのものなのである。――p.150

―― 第Ⅱ部「時間」 第一章「形式としての「現在」」

詩人はみな、独自の時間を、つかめているのだろうか。

さてヴァレリーは、この比較不可能であるという性質を、むしろ積極的に時間の本質としてとらえる。つまり、一方が他方によって表現されることのない無縁な二つの瞬間を、にもかかわらず含んでいることこそ時間の本質だと考えるのである。「時間は、わたしには、矛盾の可能性、互いに矛盾するものの接触の可能性であるように思われる」。相互に相容れない二つの瞬間AとBも、時間のもとではひとつの変化によって結びついてしまうだろう。時間は同一でないものの同一性を運ぶ。時間を前に、「矛盾原理」は消滅してしまう。矛盾原理は言語の領域においてのみ起こるのであって、「話す領域への投影」をすれば生じているようにみえる矛盾も、時間の相においては解消してしまうのである。――pp.150-151

―― 第Ⅱ部「時間」 第一章「形式としての「現在」」

その矛盾を超えるためには、自らの内に秘める男性性と女性性のバランスをとらねばなりません。それで、ヴァレリーのバランスを保つべく、女性性を活性化し得る女性たちが、彼の周りに現れたのではなかろうか。

清水徹『ヴァレリー 知性と感性の相克』(岩波新書)では、ヴァレリーの四度の大恋愛を通して、彼の人物像に迫っています。彼を、ただの女好き、と評価する人もいるようだが、そういうことではありません。

格闘する詩人の知性を生かしたのは、彼女たちです。

ところで、ヴァレリーは、形式としての「現在」を問います。

 ヴァレリーにとって現在とは、「構造化」された時間である。形式としての現在を問うとは、それじたいとしてはとらえられない時間が、どのように「構造化」されて私たちにとってあらわれてくるか、その諸条件を問うことなのである。そこでヴァレリーがあげるのが「予期」である。予期こそ感性を方向付け、私たちの「現在」の前後に「過去」と「未来」を作り出す要因なのである。――p.153

 意識されているか否かにかかわらず、覚醒している限り予期は常になされている。予期することは必ず、その出来事の生起に向けて身構えること、応答するための行為を身体的に準備することを伴っている。そしてこうした身構えが、私たちと外界の出会い方を大きく左右するのである。予期しだいでは、同じ出来事であったとしてもその価値はまったく別のものに変わってしまうだろう。ヴァレリーが重視するのは、出来事それじたいの価値ではない。あらかじめ予期によって状態づけられた私たちにとっての、その出来事の価値である。――p.158

 予期とは、予期される出来事に向けて反応する可能性を準備し、それを「使えるようにしておくこと」であり、つまりは「感性をある状態にしておくこと」なのである。――p.161

―― 第Ⅱ部「時間」 第一章「形式としての「現在」」

以上、言語学的制約から自由になるために。つづく。

この書物に触れる記事は六つあります。次の「伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』にて(錯綜体)」という記事が、それらのまとめです。