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伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(第Ⅱ部第三章)にて

今回の記事は、過去の記事「伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(第Ⅱ部第二章)にて」のつづきです。ポール・ヴァレリーが考える時間のあり方や、時間の持続のあり方を、取り出しています。

さて、ヴァレリーにとってリズムは、持続の対極にあります。世界と主体の「ずれ」よりも、「一致」が意味を持つ場合としてのリズムです。

リズムは変化と規則性が共存するところに生まれる。規則が変化を含んでいるとき、あるいは多様であるにもかかわらず規則性が見出されるとき、リズムが存在する。分割できないひとつづきの列を分割するのがリズムである。この「分割」はしたがって、主体の側の行為である。それはまさに「行為」であって、知的に対象を分析すること、つまり「理解」することではない。リズムに乗り、現象と一体化することはできても、それを科学的に分析してしまえば、何の規則も見出されないだろう。「リズムとは、ある列の模倣可能な特性である。模倣可能であって理解可能ではない」。――p.184

―― 第Ⅱ部「時間」 第三章「行為の法則化」

この書物は三部構成です。とくに難解な第Ⅱ部「時間」が、第Ⅰ部「作品」と第Ⅲ部「身体」の架け橋となっています。まずは、第Ⅱ部を突破すべく、第Ⅱ部の三つの章を三つの記事に分けて取り出してきました。

これを踏まえて、第Ⅲ部に臨み、別の機会に記事にしようと思います。

が、

ヴァレリーのリズムを、私は、アンリ・ベルクソンの哲学用語も併せて考えることにします。次の図は、ベルクソン用語を整理したものです。

この図は独学の具体例の一つにすぎません。

意識の焦点が、純粋持続と純粋記憶を交互に巡るイメージを持ちます。

強拍は、焦点が純粋持続を通るたびに生じ、強拍と強拍のあいだにある弱拍およびリズムは、焦点がたどる純粋記憶の振動ではないかと・・・。

以上、言語学的制約から自由になるために。

この書物に触れる記事は六つあります。次の「伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』にて(錯綜体)」という記事が、それらのまとめです。