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松良天皇御陵と綾子姫命御陵の神風串呂(№95)

この記事は、神皇正統家極秘伝 神風串呂(カミカゼクシロ)を分かりやすく解説したものです。

串呂(クシロ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した元伊勢クシロの事です。

元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂(カミカゼクシロ)のことだったのです。

ここでは、愛知県豊川市御油町筑前ケ谷の「松良天皇御陵」と静岡県浜松市天竜区船明の「綾子姫命御陵」をご紹介しています。

神皇正統嫡皇孫「三浦芳聖」が解明した串呂哲学(神風串呂)の分かりやすい解説書で、串呂哲学研究会「鈴木」が、半世紀以上にわたって研究してきた成果を公開しています!

神風串呂(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!


1、青木文献により綾子姫命の御陵を発見

約二年間の兵役を終え、大正15年(1926)12月、愛知県蒲郡市清田町の恵照山日曜院の住職に就任した三浦芳聖に、翌昭和2年(1927)9月、東京の学生時代に家庭教師をしていた時の教え子「中田弥生さん」との間に縁談がまとまりました。

昭和2年(1927)9月のある日、中田父娘が日曜院を見るためにやって来て、お寺で二泊して帰ったその翌日の事です。

三浦家代々のお出入りの中西久次郎氏が「青木文献」を携えてやってきて、長慶天皇の御陵墓が三河にあることを宮内省に届け出るようにとの要請がありました。

当時の状況から、三浦芳聖は、中西氏の要請は断ったが、中西氏が持参した青木文献に記載されていた内容から、「松良天皇」の皇后綾子姫が、静岡県天竜市光明村(現在の浜松市天竜区船明)に落ちていった事を知ることが出来ました。

そこで、三浦芳聖は、20万分の1の地図を広げて「恵照山日曜院」と御油の「松良天皇御陵」とを結んでみた所、不思議なことに、東は天竜市「光明村」を串呂し、西は岡山県倉敷市「弥生町」を串呂していました。

これぞ神の御導きと、三浦芳聖が早速調査に出かけた所、二俣から光明村に入ると「船明」(ふなぎら)という部落に瓢箪型をした「上臈塚」(綾子姫御陵)を発見することが出来ました。

今回は、この時に解明された、松良天皇御陵と綾子姫御陵の神風串呂をご紹介します。三浦芳聖24歳、串呂研究草創期に解明された串呂です。

2、串呂哲学の理解を助ける予備知識

日曜院
愛知県蒲郡市清田町(地図マピオン)

始めての方は、下記の記事を参照してください。

3、松良天皇御陵と綾子姫命御陵の神風串呂

三浦芳聖は、愛知県豊川市御油町筑前ケ谷の「松良天皇御陵」と静岡県浜松市天竜区船明の「綾子姫命御陵」とを串線すると、次の様な神風串呂になると述べています。

松良天皇と綾子姫命については、松良天皇(正良)を参照下さい。


三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第六章 269頁

弥生町」(倉敷市)-「湊川神社」(神戸市)-「元町」(伊賀市)-「南黒田」(津市)-「市子」(西尾市)-「恵照山日曜院」(蒲郡市)-「松良天皇御陵」(豊川市)-「西黒田」(浜松市)-「綾子姫命御陵」(浜松市)-「黒田」(森町)

【地文のみ掲載】
「弥生町」-「湊川神社」-「元町」-「南黒田」-「市子」-「卍恵照山日曜院」-「松良天皇御陵」-「西黒田」-「綾子姫命御陵」-「黒田」

【地文の解釈】(地文に地図がリンクしています。)

弥生
岡山県倉敷市水島東(地図マピオン)

(1)弥生町(やよい、岡山県倉敷市水島東)
三浦芳聖が東京で学生時代に家庭教師をしていた「中田弥生」さん(明治40年丁未3月生まれ)を表わす地名。

三浦芳聖は、大正15年(1926)11月、約2年間の兵役を終え、同年12月1日に、恵照山日曜院の住職に就任したが、6月には院代を置いて、月の内半分は遠祖の御陵探し、後の半分は東京での修養と維新運動に充てていた。

弥生さんの父親「中田達治」氏と漢学で意気投合した三浦芳聖は、月二回ほど中田家を訪問し、中田氏は漢詩を講義し、三浦芳聖は四書五経を講義する内に、中田氏の要望で娘の弥生を嫁に貰ってほしいと言われ、昭和2年の11月に結婚式をする運びになり昭和2年(1927)9月、中田父娘は、お寺を見るため恵照山日曜院に二泊して帰宅した。

その翌日、代々三浦家に仕えていた、豊川市御油町の中西久次郎氏が、青木文献(千種文献)を携えて「恵照山日曜院」を訪問した。その青木文献(千種文献)には、「綾子姫」について下記のように書かれてあった。

寛成親王息女綾姫宮路左太夫遠洲光明寺村落給
(寛成親王の息女綾姫は宮路佐太夫と遠州光明寺村に落ち給う)

そこで、三浦芳聖は、その当時住職をしていた「恵照山日曜院」と「松良天皇御陵」を結んで西方に延長したところ、不思議なことに倉敷市の「弥生町」を串呂していた。

東方に延長すると、天竜市光明村を串呂していたので、昭和2年(1927)9月、青木文献の記録に基づき静岡県光明村(現在の浜松市天竜区)に調査に出かけたところ、二俣から光明村に入ると船明と云う部落があり、そこに瓢箪型をした塚(上臈塚)を発見した。

船明
浜松市天竜区船明(地図マピオン)

松良天皇皇后綾子姫の御陵(上臈塚)の位置が特定できたので、帰宅後地図を広げて調べたところ、今回紹介中の串呂が解明できたという。

その後、縁談は不縁になったが、中田父娘が恵照山日曜院を訪問したことが綾子姫の御陵(上臈塚)の串呂解明に結び付いた。

(2)⛩湊川神社(みなとがわじんじゃ、神戸市中央区多聞通)

湊川神社
神戸市中央区多聞通(地図マピオン)

祭神は、南朝大忠臣「楠木正成公」を祀る神社で元別格官幣社。地元では「楠公(なんこう)さん」と呼ばれています。

【参照】『ウィキペディア(Wikipedia)』湊川神社

この神風串呂の守護神であると共に、祭神の楠木正成公の子孫のDNAも、婚姻を通じて三浦家に入っていますので、楠木正成公が三浦家の遠祖であることは間違いありません。この件にご興味のある方は、下記をご覧下さい。

【参照】三浦佐久姫 ・大宝天皇皇后 

神戸市中央区多聞通に湊川神社が建立されたのは、延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)、湊川の戦い「摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦」で、正成と正季兄弟らが刺し違えて自害した事跡によります。
『ウィキペディア(Wikipedia)』湊川の戦い

(3)元町(もとまち、三重県伊賀市上阿波)

伊賀市元町
三重県伊賀市上阿波(地図マピオン)

松良天皇の御母・小室門院元子内親王をあらわす地文であると共に三浦芳聖の母親「元子様」を表わす地文。

三浦芳聖は松良天皇の再現であるゆえ、この串呂が解明された当時住職をしていた「卍恵照山日曜院」と「松良天皇御陵」を結んだ線上にこの「元町」が串呂していた。

【参照】小室門院元子内親王

(4)南黒田(みなみくろだ、三重県津市河芸町)
黒田は、二黒土星の母をあらわす地文。(8)西黒田、(10)黒田とで、黒田三串の絶対確証の神風串呂を構成している。

松良天皇の母「小室門院元子内親王」は、興国元年(1341年)二黒土星辛巳年降誕。三浦芳聖の母「元子」は、明治14年(1881年)二黒土星辛巳年(5月10日)生誕。ともに「黒田」である。

(5)市子町(いちごちょう、愛知県西尾市)
三浦芳聖の父親の名前が「三浦市次郎」であることから、「市子」は、三浦芳聖を表わす地文。父親は「三浦市次郎」であると解釈する。

(6)恵照山日曜院(えしょうざんにちよういん、蒲郡市清田町門前)

日曜院
恵照山日曜院(愛知県蒲郡市清田町門前、昭和45年頃)

三浦芳聖が、大正15年(1926)12月1日~昭和4年(1929)8月24日まで住職をしたお寺。浄土宗西山深草派「楠林山安楽寺」の塔頭で、薬師如来像が有名。

【参照】日曜院  ウィキペディア』安楽寺 (蒲郡市)

(7)松良天皇御陵(まつながてんのうごりょう、豊川市御油町筑前ケ谷)

三浦家墓地
豊川市御油町筑前ケ谷(goo地図)

元来は、松良天皇御陵「御坊塚」(おんぼうづか)で、現在は、三浦家墓地となっています(八幡大明神)。すぐ近くに御油の松並木が有ります。

ここは、三浦芳聖の祭祀場の一つで、毎月一回は必ず参拝し、約一時間ほど特別秘法祭祀を厳修しておられました。

【参照】多賀大社と三浦芳聖晩年の住所との神風串呂

(8)西黒田(にしくろだ、静岡県浜松市北区引佐町)
黒田は、二黒土星の母をあらわす地文。(4)南黒田、(10)黒田とで、黒田三串の絶対確証の神風串呂を構成している。

松良天皇の母「小室門院元子内親王」は、興国元年(1341)二黒土星辛巳年降誕。三浦芳聖の母「元子」は、明治14年(1881)二黒土星辛巳年(5月10日)生誕。ともに「黒田」である。

(9)綾子姫命御陵(あやこひめのみこと御陵、静岡県浜松市天竜区船明)

上臈塚
静岡県浜松市天竜区船明(地図マピオン)

綾子姫命御陵は、「上臈塚(じょうろうづか)」と呼ばれている。詳細は不明であるが、お供の宮路左太夫に護衛されながら落ちてきて、この地で最期を遂げられたようだ。

青木文献(千種文献)には、綾子姫について下記のように書かれてある。

寛成親王息女綾姫宮路左太夫遠洲光明寺村落給
(寛成親王の息女綾姫は宮路佐太夫と遠州光明寺村に落ち給う)

また、地元の「遠江国風土記」には、下記のように記載されている。

「遠江国風土記」に船明の記載があり、「上臈塚」の官女流離譚が残っている。「古老曰く、昔、官女流離して生害しここに葬る。塚囲三十歩計り、雑木繁生す。その侍者自殺し傍らに葬り下賤塚と号す。相去る一町、四辺田となる。その塚の枝葉を伐る者祟る。また闇夜に鬼火出づ。」
(『富士〝隠れ南朝〟史』富士地方資料調査会314頁)

【参照】綾子姫命(松良天皇皇后)

(10)黒田(くろだ、静岡県周智郡森町三倉)

森町黒田
静岡県周智郡森町三倉(地図マピオン)

黒田は、二黒土星の母をあらわす地文。(4)南黒田、(8)西黒田とで、黒田三串の絶対確証の神風串呂を構成している。

松良天皇の母「小室門院元子内親王」は、興国元年(1341)二黒土星辛巳年降誕。三浦芳聖の母「元子」は、明治14年(1881)二黒土星辛巳年(5月10日)生誕。ともに「黒田」である。

4、この串呂の解釈と串呂哲学的考察

「弥生町」-「湊川神社」-「元町」-「南黒田」-「市子」-「卍恵照山日曜院」-「松良天皇御陵」-「西黒田」-「綾子姫命御陵」-「黒田」

中西久次郎氏が持参した青木文献を見た三浦芳聖は、その当時住職をしていた「卍恵照山日曜院」と「松良天皇御陵」を結んで西方に延長したところ倉敷市の「弥生町」を串呂したので、早速、青木文献に書かれてあった「光明村」に出かけた所「綾子姫命御陵」(上臈塚)を発見した。

三浦芳聖は、綾子姫命御陵(上臈塚)の位置が特定できたので、帰宅後、念入りに調べた所、黒田三串で「湊川神社」「元町」「市子」を通る上記の神秘的な神風串呂が解明されました。

弥生町湊川神社恵照山日曜院松良天皇御陵綾子姫命御陵

この串呂を構築するために、串呂主宰神が如何にご苦心されたかが、真にご理解できますと、串呂というものが如何なるものかが分かります。三浦芳聖はこの串呂が解明された事について次のように述べています。

之は「皇祖大神」と古今無比の大忠臣「楠木正成」公がお導き下さったのだと悟ったとき、有難さ忝さでしばし感涙にむせびました。

昭和2年(1927)9月、三浦芳聖24歳の串呂研究草創期のお話です。


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この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。

ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

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神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№94)
京都市西京区御陵と松良天皇御陵との神風串呂(№94)
🟢次号(№96)
皇大神宮内宮と綾子姫命御陵の神風串呂(№96)

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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