見出し画像

「竜になる方法を探して」怪獣歌会の往復書簡【4】

「繋ぐことに興味がないなら、どうして創作をするんでしょう?」と問う鳥居。

川野は「生まれて最初に目に入ったものが言葉だった」「妖精か竜になる方法を探している」と、言葉と世界の認識を語りはじめます。

この文章は怪獣歌会の鳥居と川野の間で交わされた往復書簡の第4回、川野の返信を収録しています。

以前の往復書簡はこちらからどうぞ(第4回からでも楽しく読めます)
https://note.mu/quaijiu/m/m8a3a640a2809

※この往復書簡は4往復でいったん区切りをつける予定です。このエントリでは、2往復目の復路を公開しています。

----------

今回の君の手紙はとても面白い。
前回のはあまり面白くなくて、それは君が自分の言葉で話している感じがしなかったからです(まあ一通目は挨拶みたいなものだからね)。今回のは君の言葉で書かれた手紙、君にしか書けない手紙だと思いました。それがきっと、君の経験した時間の集積によるもの、なのでしょう。
特に対話に飢えていた話や人工無脳の話が面白くて、それは君の生きてきた時間が見えるからなんだろうな。だとすると私は君という人間に興味があるのだろうか。
少なくとも人がどういう言葉を話すかには興味がある。他の誰も聞かせてくれない言葉を聞かせてくれる人には興味がある。

君の手紙で思い出したけど、私も対話に飢えていた時期があります。といっても君のとは方向性が反対だったのかな。一生懸命言葉を話せば話すほど、言葉を奪われていくような、沈黙に追い込まれていくような頃があって。
しまいには人と会っても自分の内側に言葉が見つけられなくなり、私は井戸のことを考えていた、どれほど深く釣瓶を下ろしていっても、水面に辿り着くことのできない深い井戸。
そんなとき、ある知人となにげなく話を始めたらびっくりするくらい会話が成り立って、「そんな、歯車が自然に噛み合うような会話が存在することさえ、私は忘れていた気がする」(というのは、当時別の人に書いた手紙からの、うろおぼえの引用です)。
その知人とはその後特に仲良くなるようなこともなく、そのまま縁が切れましたが、喉が渇いていたことにさえ気付かずに水を飲んだときのようなあの感動は忘れません。

またあるとき、自分に対してさえ認められずにいたある事実を、別の知人との会話の中ではするっと認めることができて、やはり鮮明な感動を覚えました。
実際にはその会話は、私の頭の中で行われました。さして親しいわけではなかったその知人から久しぶりに連絡が来て、自分の近況をどう書こうかなと考えていたら、ふいに自分がどういう状況にいるのかを認めることができたのです。

前回、対話は自分の中で行われると書いたとき、長くなりすぎるから書かなかったことがあって、それは架空の宛名を自分の中に持つためには現実の他者が必要(あるいは、いるといい)ということです。
自分の中に他者を育てるために他者に会う、というか。

スヌーピーの作者のチャールズ・M・シュルツが、会話とただ話すことの違いについてこのように書いていました。

> 子供たちは会話をしません。彼らはただ話すだけです。彼らは質問し、ものを言い、しゃべります。しかし彼らは人生で最大の楽しみのひとつ、会話については何も知りません。そして、一年ぐらい早い遅いはありますが、12歳ぐらいになると、夏の日の夕暮れどき、玄関の前に停めた自転車にまたがって、ふたりで自分たちの共通の知人について話をしはじめ、そこで会話を発見するのです。――チャールズ・M・シュルツ『スヌーピーの50年 世界中が愛したコミック「ピーナッツ」』(朝日新聞社、2004年)、202頁

それを読んだときの私は「子供は会話をしない」という部分に反発を覚えて、ほんとかよ、と思ったのですが(ちょうど12歳くらいでした)、その少し後から急に周囲の人たちと会話が成立するようになって、ほんとだ、と思いました。

いま、私は君の手紙に応答するというより連想したことをつらつらと書いているのだけど、脱線するのが人間の対話だと君が書いてくれたし、それは私には思いつかない答えだったけどたしかにそうだと思えたので、安心して脱線します。

君が「自分のやっていることが面白いかどうかわからない」と書いていたところで、私は「それは自分にとっての面白さ? 他人にとっての面白さ?」と聞こうと思ったんだけど、君の言う面白さは他者への贈り物なのね。なるほどなあ。
関係があるかどうかわからないけど、私はあるときから、自分の身を守るために決めていることがあって、それは「(なるべく)したいことしかしない」ということです。
食べ物にたとえると、美味しいと思えないものを無理に食べさせられていると、感覚を鈍麻させるのが通常になっちゃって、食べ物が腐ってても毒が入っててももう満腹でも気付かないんだよね。
食べたいものだけ食べて、ちょっとでも「あ、変な味する」と思ったら吐き出すようにすると、あんまり死なないような気がする。
私にとっての面白さってそういう感じ。自分のためのもの。でも、つねに「自分はほんとにこれが食べたいのか」を考えてると、食べられるものが限定されてすごく痩せてしまったりする、という問題もあります。

なんで創作をするか、っていう話でしたね。
私は「繋ぐ」ことと創作をあまり関連付けて考えたことがなかったのですが、君の手紙を読んだらたしかになるほどと思うところがありました。
私は生まれてから十年間は友達を作らなかったし、あんまり喋らなかったと思うし(諸説ある)、人と話すよりは本を読んでて、ものごころついたときから本を作ったり(自由帳のページをホッチキスでとめて冊子にしてお話を書いてた)壁新聞を作ったり(家の壁に貼っていた)していました。
刷り込みってあるでしょ、鳥とかが生まれて最初に目に入ったものを親だと思ってついていくというの。私は最初に目に入ったものが人間じゃなくて言葉だったから、言葉のあとをくっついて歩いてるんじゃないかな。

ものごころついた頃からお話を書きつづけて、初めて満足のいくものが書けたのは中学生のときです。
自分で考えて書いたような感じはしなかった。一文目が降ってきたからそれを書いたら、二文目が降ってきて、誰かの言葉を書き取るように書いていったら書き上がりました。何度読んでも、他の人の言葉を読んでいるようで面白かった。その後も、よく書けていると思う話はどれも、自分で書いた気がしないものばかりでした。
そういう経験によるものでもあるのかな、言葉とは他者なんだと私が思っているのは。言葉を使って何かを書く、あるいは話すというのはそれ自体が言葉との対話なのだと私は思っています。
君は、面白さは他の人への贈り物だと言ったけど、私にとって言葉を使うことは言葉への捧げ物なのだと思います。あるいは恩返しかな。言葉を与えられたことに対する。他者への贈り物という点では同じだね。
与えられた言葉を、生まれてから死ぬまで、使って、磨いて、積み重ねて、組み合わせて、切り開いて、ことばへと返していく。
人間はそのために生まれてきたのだと思っているところがあります。
私が他者と会って話をするのも、自分の中の他者として取り込んで、最終的には全部言葉の贄にするためのような気がする。

いま気付いたのだけど、いいものが書けるようになった時期というのは、書いたものを初めて人に見せるようになった時期でもありました。
生身(とはなんだろう)の他者の存在がなんらかの触媒になったのかもしれない。

あとこれは多分全然関係のない話だけど、同じ時期、夢(夜に見る夢)が急に私の想像力を超えるようになりました。
それまで、出てくる場所は家か学校で、覚めているときに見たものの断片の繋ぎ合わせに過ぎない夢だったのに、突然見たこともないもの、見たこともない場所が出てくるようになって、色鮮やかになって、話も複雑になって。
何かあるんだろうか、人は13歳くらいになると異界への扉が開くようになるとか。

私は大学院でいちおうファンタジーの研究をしているのだけど、どうしてファンタジーなのか、と聞かれたときに、「(話しながらわかったけど、)私は妖精か竜になる方法を研究しているんです」と答えたことがあります。
人が現実だと思っているものは人がそう認識したものに過ぎなくて、認識は言葉でできていて、だから「現実」を構成している言葉を組み替えると「現実」を変えられるはずなんだよね。
だから「現実」ではないものを現前させようとする言葉=ファンタジーを追いかけている。
それで、「現実」の壁の向こう側に行って竜になれたら、永遠に死なない気がしない?
人間が滅びても、ある言葉が発せられて、ある世界がそこに生まれたという事実は、消えないような気がしない?

私がファンタジーをやってる理由と、フェミニストをやってる理由は、たぶん同じです。

読み返してみると、この手紙は、過去に自分がどこかで書いたこと、話したこと、自分の中で言語化したことの自己引用の集積です。その中にきっと一割くらい、今回初めて言語化したことがまざっていて、それは宛名が君だからこそできた話で、こののちその話をするときは、「これは友達と往復書簡をしたときに書いたことなんだけどね」と前置きしながら話すことになるのでしょう。

書きたいことはまだまだあって、というか君の手紙にまだ全然応答できていないし、君と話すのが楽しすぎて「対話っていいなあ」という手紙になったけど、もっと「他人がこわい、他人に興味がない」という話もしたい。でも満足がいくまで書き続けるときっと出さない手紙になってしまうから、このへんで。
でも筆を擱いたあとも私は私の中の君に「そういえばあの話だけど……」と話しかけるだろうと思う。現実(ってなんだろう)の他者としての君にその話をする日は来るかもしれないし来ないかもしれない。
君とは四六時中会って話してるし、君のことはつねづね聞くのが上手い人だなあと思っているから、たぶん話すけど。
でも今後二度と君と会うことがないとしても、私の中に架空の宛名としての君はいて、私は君と話すだろうと思う。それだけでも、君と会えてよかったなと思うよ。

質問があった方が返事がしやすいかな。「人間が多様であると仮定した場合」と君は書いていますね。「仮定」とあるけど、では君は人間は多様であると思いますか? 答えても答えなくてもいいです。

2018/06/28 川野芽生

----------

次回予告

君の手紙を読んでどうしてもしたい話があります。この話は私が尊敬しているある哲学者の授業で聞いた話で、私はずっとこれを心の支えにしています──(【5】より)

次回【5】「『人間は多様だ』と嘘でも言う」


この記事が参加している募集

コンテンツ会議

怪獣歌会は、短歌の世界および世界全体を多様な人々にとって生きやすい場所にしたいという理念のもとに活動しています。理念に賛同してくださる方、記事を気に入ってくださった方々のサポートをお待ちしています。頂いたサポートは活動資金となったり、メンバーを生きやすくするために使われたりします