見出し画像

QQ女母と下ネタ

看護師だったという母は私を産んだ後専業主婦になったが、縫い物が得意でミシンを踏み内職をしていた。
岐阜は昔ファッションの街というくらい繊維の街だったため、縫製屋さんや内職をやる所がけっこうあった。

ひとりっ子の私は夏休みのプールから帰ってきては母のミシンの音を聞きながらアイスをペロペロ食べ昼寝をするのが至福の時間だった。
外に出るのが好きな子供だったが、学校から家に帰った時母がいないと親戚中に電話をかけまくって探すくらい母は心の安定剤だった。(普段は自由にさせておいてほしいのに自分が必要な時にいないと嫌というわがままな奴。)

母は純粋で我慢強く自分のことは後回しにして家族優先、家ではくだらない面白い事をたまに言う人だったが外ではあまり自己主張をしないわりとおとなしい人だった。

私が小学校5年生の時、母に癌が見つかりはじめて入院した。
それから数年にわたり何度も入退院を繰り返し闘病生活を送っていた。

私はこの世は自分が主人公の映画の中を生きていると思っていたくらい(ある意味そうなのだけど)自分中心に生きていて、悪い事は自分には起きないと思っていたくらい頭の中はお花畑な子供だったため、入院しては退院する母は永遠に復活して必ず戻ってくると思っていた。(どうかしてるぜ)

母は私が19歳、母が43歳の時にこの世を去った。
人は死ぬんだとはじめて知った。
私にとって母の死は重い重い出来事だった。

何もしてあげられなかった自分を悔やんで自分は非道な人間と軽蔑した。
なんであの時ああしてあげなかったのか、もっとこうしてあげれたのにと後悔ばかりだった。

しばらく死の話や母の話ができなかった。

病気の母が出てくる「となりのトトロ」もまともに見れなかった。(未だにちゃんとみた事がない。)

電車の向かいの席で母と娘らしき人が楽しそうに話しているのを見て涙が出る事もあった。

深くえぐれた傷にカサブタができるまで10年くらいかかった。

時は経ち、母が亡くなった歳を超えたころ地元に帰省して親戚のおばさんに久しぶりに会っていろんな話をした事があった。
昔のこと、最近のこと、しょうもない話を面白おかしくボケたりつっこんだりをおばさんとやりながらケラケラ笑って話した。

おばさんは笑いながら
「お母さんに似てきたねー!」といった。
「あら、そーう?」
やはり歳をとって風貌が良く似てきたか。

「どこが似てきたー?」
おばさんは笑いながら
「お母さんも面白い人やったわ。よくみんなでご飯食べたりした時、下ネタとか言って笑わせとったんやよー」

「・・・・・・ ええええ!!」

いやいや、母はピュアでおとなしい人だったはず。
下ネタ⁉︎ しもねた⁉︎⁉︎ シモネター??

そういえば私が小学生のころ年賀状の文章が思いつかない時に、
「年が明けてもチャック(社会の窓)は開けるな」
というくだらない下ネタご挨拶と共に干支の馬にズボン👖を履かせチャックを開けた絵を描くというナイスなアイデアを伝授した。
(よく考えたらば我が家はOYOYOファミリー。※過去のnote Oh!YOYO!参照)

忘れかけていた母の思い出が急によみがえり、親だって人間だもんね〜子供に見せる顔と大人に見せる顔は違うわよね〜。
いや、ちょいちょい下ネタ言ってたような。。

母さん私のこのお調子者感は、父さんだけではなくあなた譲りでもあるのね。
(父も変なおじさんだった。父が東京に遊びに来た時、駅構内で販売していたパン屋が自分と同じ苗字だったため自分の免許証を見せて「同じ名前やけどまけてくれる?」とペロリ舌を出してどう答えていいかわからないオヤジギャグをかましていた)

そんなこんなも昨日のよう。
私もついこの前まで子供だった。

人生は短いのだ。

大切な人を見失わず、やりたい事はなる早で、行きたいところには行って、会いたい人には会う。
良きご縁を大切に、日々楽しく面白く生きていこうと改めて思う。

いつまでもあると思うな親と金とQQ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?