ふしだらな女と責められても、50年前の自分の恥部にメスを入れた
「知らない男の人と喋っちゃだめよ」と、叔母に言われていたのにフィロミナは、妊娠までしてしまった。
1950年代のアイルランドは、貧しかった。
未婚の母は、家族にも社会にも厄介者だった。妊婦は、修道院に無理やり送り込まれ、出産。
修道院で4年間一日の休みもなく、洗濯女として働かされた。母親が子供に会えるのは月に1時間だけ。修道院の養子ビジネスに支障をきたさないためだった。
4歳になった息子アンソニーは、アメリカの裕福な家庭に1,000ポンドで売られていった。フィロミナは、別れを言うことさえ許されなかった。
養子アンソニーは、今年で50才。看護師を辞めたフィロミナは、息子を探そうと思った。不自由な思いをさせたことを、とにかく謝りたかった。
長い旅路を描いた映画「フィロミナ」は、実在の人物フィロミナ・リーの物語である。
46年前連れ去られてどこにいるかわからない息子を探すのは容易ではなかった。
彼女一人ではできない。そこで、娘が連れてきたのが、政治記者マーティン。
英国政府の広報だったが、大臣と喧嘩しクビになった。
マーティンは友達に聞かれた「これからどうするんだ?」「ランニングかな」「何か書かないのか?」「ロシア史かな」「走ってた方がいいな」と友達に言われた。
そんなとき「母親と一緒に息子探しをしてほしい」と言われ「記事を書くにしろ、社会面のヒューマンな出来事は、弱い人間が読むものだから、気が進まない」と、一度は断った。
しかし、新聞社にこの仕事の話をすると、調査費用を出すと言われた。
妻からは、次の仕事を早く探せの催促もあり、マーティンは仕事を引き受けた。
最初に、マーティンが、フィロミナに尋ねたことは「どうして、50年も黙っていたのか」だった。「みだらな罪を犯したから、黙っていた。でも、黙っているのも罪だと思った。それに、息子に会えるのは今しかない」と答えた。
まず、二人は修道院に向かった。養子先を調べるためだった。ところが、名簿は、5年前の火災で消失。修道院にとって都合のいいことには、親の子供に対する権利放棄の証書だけは残されていた。養子縁組が多かったアメリカの要請で、書類が燃やされたとマーティンは思った。
この先は、アメリカ移民局とか政府関係者に問い合わせる。元・政府広報の出番
だった。二人はアメリカへ向かう。
移民局で、息子のアンソニーは、裕福なヘルマン・ヘス夫妻の養子になり、マイケルに改名されたことがわかった。アメリカ到着が報道された新聞記事も発見。
そして、マーティンの本領発揮。彼が問い合わせた共和党事務所から、
フィロミナを感激させた情報が提供された。
息子のマイケルは、レーガン&ブッシュの共和党政権の法律顧問として重用されていた。
しかも、BBC時代のマーティンが、なんと、彼の記者会見を取材していた。
(マーティンは、ビデオを見るまで思いださなかったのもご愛嬌だった)
フィロミナはマーティンに身を乗り出して聞く
「息子とは言葉を交わしたの?」
「出口の方にいたので、”ハロー”と言って、握手した」
「どんな握手だったの?」
「強い握手だった」
「そりゃあ、そうでしょ。政府の顧問なんだから、力強いはずよ」
フィロミナはご機嫌だった。
息子のマイケルの写真が、アルバムに保存されていた。親友ピートとの写真もあった。そこで、マイケルが、ゲイだったことを知る。
「マイケルに子供はいないの?」「ゲイだからいないでしょ」「私の看護師仲間で、両方愛せるゲイの人がいたのよ」とフィロミナは、残念そうに言った。
フィロミナは、会う人ごとに尋ねる質問があった「マイケルは、アイルランドの
こと話していたでしょうか」そっけなく否定されていた。
エイズが、ゲイの感染病だとわかってから、共和党は、エイズの治療研究費を大幅にカットした。
マイケルは共和党を追われるように去った。
そして、聞きたくない事実。
マイケルは、8年前の1995年に、エイズで死亡していたことを知らされた。
フィロミナの顔から血の気が引いた。
とりあえず「教会に行って懺悔したい」と言い出した。しかし「子供を売っていた教会の方が、悔い改めるべきでしょう」とマーティン。
フィロミナは、懺悔室に入ったが、今の自分に正直な言葉が見つからず、無言で退室した。
それにしても気になっていた。周辺の人々に聞いても、マイケルは、アイルランドのことも、母親のことも、修道院のことも、口に出していなかったことだ。
「もう止めましょう。借金がなければ、1万ポンドまで国が貸してくれる。その
お金をあなたにあげるから、記事のことは忘れて」とフィロミナが言った。
マーティンは新聞社へ電話し、失意のフィロミナと帰国すると報告した。
米国を離れる前にマーティンは、バーで、アイルランドのギネスビールを飲んだ。
そのとき、ラベルの”ギネス・ハープ”が目に留まった。
アルバムの写真で、マイケルが、このギネス・ハープのピンバッジをつけていたのを思い出した。急いで、フィロミナを呼んだ。
「マイケルは、アイリッシュを誇りに思っていた証拠だ」とマーティンは言った。
息子は、アイルランドを忘れてないことを、フィロミナは確信した。
涙で写真が見えなくなった。
フィロミナは意を決した。
「実際に、息子と一緒にいた人に一人も会っていない。神様は、まだ、私に何も
言っていない。私はアメリカにもう少し残りたい」と言った。
翌日、マイケルの親友だったピートの家を訪ねた。室内にはマイケルの写真が飾られていた。まだ、愛されていたことがわかった。
ピートによると、マイケルはエイズの症状が悪化していたが、母親に会うために、アイルランドのロスクレア修道院を訪ねた。しかし、すべての記録は消失したと言われ、母親の住所を教えてもらえなかった。
アメリカへ帰り、養父母を説得し、母の国アイルランドで、母に近い修道院に
自分を埋葬する希望を叶えたと、ピートから伝えられた。
フィロミナは、息子を少しでも疑ったことを詫びた。
この後、義憤にかられたマーティンは、修道院の当時の修道女を許さなかった。
そして、フィオミナの悲劇を記事にしないことを決めた。
フィオミナも記事にしないことを希望していたが、母と母国を愛した息子のことを多くの人に知ってほしいと思いなおし、記事にする許可を与えた。
マーティンが、二人の長い旅を、TSエリオットの詩で結んだ
「探究の終わりに 出発点に達し その場所を知る」。
⭐️⭐️⭐️⭐️
母に、月に1時間しか会えなかった子供が、母への思いの限りを尽くして44歳の生命を閉じた。
・この映画を観終わって、森山良子作詞、夏川りみ歌唱の
「涙そうそう」を思った:
一番星に祈る それが私のくせになり
夕暮れに見上げる空
心いっぱいあなたを探す
悲しみにも喜びにも思うあの笑顔
あなたの場所から私が
見えたら きっといつか
会えると信じて生きていく
母を想うマイケルを思い浮かべながら視聴いただければと思います
本当に長い文章をお読みいただきありがとうございます。
次はこれより短いコラムにしますのでお許しください。