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美術作品が“ゴミ”となり得るわけ(前編)(#37)

ちょうど美術作品についての価値について考えていた矢先、このような記事をみつけました。
当人にとって価値あるものも他者にとってはそうでないとき、持ち主が変わることで価値そのものもゴミのように無価値になるのです。

アーティストや画商などアート界隈で商いにしている方々は当然自らが提供するものを「価値あるもの」として世に結びつけます。
大前提として自分自身(あるいは作品)が価値ある存在になるためでもありますから、自負や自尊心が伴うのは不思議ではありません。
ですから「アートは無価値だ」という言説自体に拒絶反応を示しやすくなります。

しかし、そうした拒絶の理由としてよく聞かれる言葉に「生きるためにはアートが必要」とか「アートは人生において欠かせないもの」といったものがあります。

本当にそうでしょうか?

実際上記ニュースのようにそのモノに価値を見出すかどうかはあくまで「受け手」の問題であり、アーティストや画商などから押し付けられる類のものでもありません。

これは何もアーティスト等に限定されるものではありませんが、発信者側から知りたいことは価値あるかどうかでなく、どうして価値があると信じるか、という理由であり、個人的意見なのです。
そしてそれを判断するのもまた聞き手である個人なのです。

それは“語れない”物故作家に価値がつく理由にも繋がります。
要するに外野がガチャガチャ、ああでもないこうでもないと言ってくれるというわけです。
こうして耳目を集めて、作家自体の価値が高まっていきます。

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美術作品は必要かどうか、それは人それぞれ(普遍的でない)

つまり必要かどうかは人それぞれなのです。
当然と言えば、当然かもしれません。

ところでアイテムや言葉を変えたとき、反応はどうなるでしょう。

たとえば「自動車」。

都内は駐車場代も高いし、地下鉄やバスでどこでも行けるし要らないー。

たとえば「冷凍食品」。

自炊した方が安いし、腹いっぱい食べられないし、健康にも良くないから要らないー。


では「結婚」ならどうでしょうか?

結婚しなくとも恋人もできるし、また出来なくても気楽でいい。結婚に支払う代金で旅行した方がいいー。

もしそのような発言を結婚願望が強い方にしたとき、反論が来るのが予想されます。

不思議なことに「自動車」「冷凍食品」といった実用的なものは、「あの人変わっているね」くらいで受け入れられがちです。

ですが「結婚」に限らず自己完結出来ない抽象的なものは、「それは良くない」とまで直接的でないにせよ、否定的意見は「自動車」や「冷凍食品」ほどすんなり受け入れられないです。

この違いは何でしょうか。

それは性質の違いです。

「自動車」「冷凍食品」はあれば便利なものですがもともとあっても無くていいモノの前提があります。
対して「結婚」の前提はあるべき(と思われている)制度や概念です。
制度としての「結婚」は一種の人生のステレオタイプとして完成されており、国の未来や誰彼にとっての幸せをもたらすであろう望まれたシステムとして、かつ概念として昇華されてもいます。
ですから当然多数の価値観に反映されている点は否めません。

しかし考えてみたら、「自動車」や「冷凍食品」、「結婚」、そのどれも無いからといって死ぬわけではありませんし、選択の自由が付き纏います。
その点で、制度としても概念としても「結婚」は、実用的な「自動車」や「冷凍食品」ほど価値観が多様化していないと言い換えられるのではないでしょうか。

美術作品界隈で聞こえるアートに対する語りは「結婚」のそれに似た響きがあります。
ですが作品はあくまでモノです。
モノとしての作品は「自動車」や「冷凍食品」の側にもいます。
あったらいい、けど、あるべきというほど縛られるほど必要でもないー、そんな感じでしょうか。

アートが必要と言われればその通りだし、そうでないと言われてもまた正解なのです。
だから必要かどうかを問うこと自体、ナンセンスになります。

フィギュアコレクターを「オタク」と揶揄しますが、収集家という意味でアートコレクターと何が異なるのでしょうか。

この点を個人的な違和感を踏まえ、語りたいと思います。

――(後編)へ続く。

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頂いたものは知識として還元したいので、アマゾンで書籍購入に費やすつもりです。😄