【読書録】ミシェル・ド・セルトー『ルーダンの憑依』

 この本を読み始めたのには一つ案内があって、ある作家が、ツイッターで「この本に表れているようなことを忘れるな」といった旨のことを言っていたからで、どういう文脈かというと、集団の中で起こる一つの事件の流れみたいなものが、歴史的に本当に確かなものなのか、どんなふうに歪んでいくのか、そういうことを知ることが出来るといったようなものだった。
 ニュースを漠然と見て、何となくで意識形成がされていき、昨日頂点に昇り詰めていた人が今日は没落していた、なんてことが日常茶飯事である現代を理解するにはちょうどよい。
 しかし、ここで取り扱っているのは、我々の常識的な理解でいえば、ずいぶん野蛮な時代とイメージする、中世の、しかも悪魔憑きを聖職者が狩り出すといったような事件である。
 事件というより、フランスじゅうを騒がせた、一つの大騒動といった方が良い。

 この事件の全体像を理解するのは難しく、かかわる人名が多くあまり覚えていられない。だが、主要人物はある程度限られている。最重要は、悪魔憑き騒動の首謀者とされ、裁判にかけられるが最後まで自分の罪を否定し続け、焼き殺されたグランディエ。それから、集団憑依の中でも中心的憑依者となった修道院長のデ・ザンジュ。グランディエを相手取って裁判を起こした、裁き手のローバルドモンなど。

 グランディエは、もともと神父だったのだが、やや性に放埓だった。身の回りの人を口説き、聖書には自然のまま男女が愛し合うことが認められてしかるべきという、かなり曲解じみた著作を、たぶん自己正当化のために書いていた。
 そんなことをしていたから、疎ましく思われたのだろう。

 修道院の内部は、悪魔に憑かれた修道女で溢れていた。悪魔はラテン語で話すのだが、憑依が解けた時にその修道女はラテン語なんて金輪際習ったことはないというのだから、憑依は確実である。それにあの身体の動きを見よ。ブリッヂして頭を支えにして足で背面歩きしているではないか。まるで「エクソシスト」そのままの絵であるが、本当にそう書いてあった。しかも当時の原典を引く形で。とにかく、バタバタと奇怪な動きをする。これも悪魔の仕業に違いない。

 分析の眼は非常に精細で、バタバタと動く修道女を医師がどの肉体の部分に悪魔が影響を及ぼしているのか、観察によって調べようとする。前兆として、手が震えてきて、どうのこうの。心拍が高まっているから、いよいよ悪魔が降臨したに違いない。
 同時に、悪魔祓い師という、まあ陰陽師みたいなことをする人が、立ち向かって悪魔を祓おうとする。これがまた面白くて、聖なるものをごちゃごちゃ集めてきてやたらと悪魔(修道女)にあてがうのだ。やれ聖体のパンを食べさせる。十字架を押し付ける。苦悶の表情が出て来た。そら悪魔だ。これは治る兆候に違いない。

 修道女はどさくさに紛れて、グランディエに始まって、男どもへの悪口をいい、本文では「夫婦喧嘩じみてきた」と書いてあった気がする、要は普段から思っている本音を、憑依に乗じて言っているんではないか? と思えるシーンもある。

 グランディエは幽閉され、何も知らされず、孤独に母親への心配を手紙にしたため、助けて下さいと孤軍奮闘する。
 こういった場合、孤立は加速するばかりだろう。誰も流れ弾を食らいたくない。憎悪は雪崩を打って何処へかわからない終着点へ向かう。行く先は、最も過酷な刑である火刑である。

 グランディエが死んだあと、こういうことは必ず後から来るのだが、実はグランディエに罪はなかったのではないか、グランディエは無辜の罪を負って殉教した聖なる人である、なんて本が刑執行の直後から六十冊近く、ルーダンの周りでばらまかれた。
 記録は、不思議なくらい冷静に取られている。饒舌なくらいだった。

 哀しい事件ではある。で、これを遠い国の出来事だの中世に起こった野蛮な事件だのと、黴臭い箱に仕舞い込んでしまうのは簡単だろう。だが、今いるインフルエンサーは後にそうならないだろうか。世の中が、非理性的な運びを全くしていないと言えるだろうか。事態は真逆に進んでいはしないだろうか。多言はしないが、ここから得られることは多いと思う。刺激的な読書だった。

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