【日記】ポールと論語

 ポール・マッカートニーの七十年代の活躍を取り上げた、ドキュメンタリー映画だか作品が公開されるらしい。おそらく、ゲット・バックの成功を受けて、ポールサイドの物語を今度は見せるという魂胆なのだろう。その魂胆に見事引っかかってしまいそうだが、今度は広く見られるようにサブスクの手段は充実したものになるのだろうか。ネットフリックスか、ユーネクストで見ることが出来るかどうかが大きいのだ。一般にビートルズ関連の映像ソースはアップルという一企業に独占されており、実情は知らないけれども、少なくとも傍から見ていてそんな感じがするし、そのアップルの素材を現在配信に載せているのは、ディズニープラスしかないようである。これも詳しく調べたわけではないから正確かどうかは保証しかねるが、ともかくビートルズ関連の映像が細い配信媒体に絞られていることだけは確かだ。一方で、ポール個人に関わる媒体はまた別であるはずで、これは先ほど留保した情報よりも自信がない、だがビートルズ時代のプロデューシングとは別のルートになっているはずである、だからたとえばネットフリックスなどで広く配信されたりしないかなあと期待している。
 一日晴れていたが、午後に少し暗くなってきていたような気がする。
 本があまり進まない。先月の終りの方から、基本的には毎日ウクレレの練習は続けているが、今日はじめて指の限界を感じた。十分程度触っていたら、筋力がなくて弦が握れなくなったのだ。こんな風になったのははじめてで、少し指を休ませようと思っている。毎日弦楽器を練習している人などは、指がどうなっているんだろう。キーボードを動かす分には、筋力なんてほとんど使わないので、書くことはできる。問題は、頭が回らないことだ。

 渡邉義浩という、おそらく学者っぽい人の、論語の解説本を最近読んでいる。『『論語』孔子の言葉はいかにつくられたか』という本で、論語の歴史ではあるが、論語の歴史を追うということは、論語の解釈の歴史、論語解釈の流派の一つ一つの検討の歴史であるらしい、ということが読んでいてわかってきた。何と迂遠なことであろうか。運のよいことに、論語なんかに触れて来なかった読者に対して優しく解説してくれている本なので、ちょうどよいテンポで、論語という一つの歴史的構造物に近づくことが出来ると感じる。
 今まで、この論語の場合でいえば、論語自体を読むということばかりを目指してきたのが私の原典というものに対する態度で、原典に近いものを読めれば読めるほど、直接的理解を得るチャンスが高いと、単純に考えていた。しかし、最近は変わってきている。論語の原文は、驚くほど解釈が割れており、たとえば「仁」というのが、孔子の思想の中心に近い部分にあるらしいのだが、言葉として「仁」と書いてあって、それをどうとらえればいいのか、一個人が向き合った時に、とうてい直接に理解を得るということは出来ないように感じる。
 仁について、人間存在的に解釈するのか、社会関係的に解釈するのか。その解釈の大筋が決まったら、他のテキストの解釈の方向が定まる……と、ざっくりいえばこの論語周辺の解釈学というのはそんな風に出来上がっている、ように見える。
 返す返すも、われわれは、個人として、そんなに多義的なものを書きうると思えるだろうか。誰かからメールの文面を受け取ったとして、それを何十年もかけて、この部分はこんな風に読めるかもしれない、だとか、その読みは後々否定されるべきだった、などなどという現象は、とても想像がつかない。しかし、論語と論語解釈の周辺では、そのようなことが起きている。不思議なことだ。

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