【日記】ノースロップ・フライ『批評の解剖』を読み始めた

 柄谷行人が『言葉と悲劇』の中で、フィクションをしっかり分類して批評というものの機能について解説しているというので、ノースロップ・フライという人の『批評の解剖』という本を入手し、読み始めた。
 確か、アマゾンだか、「日本の古本屋」だかで検索して買ったのだった。巷の古本屋などを歩いていても見つかりそうになかったのでネットで買うことにした。
「日本の古本屋」は、今経営が厳しくなってきている、古本屋について、そこから直接買うことのできるシステムになっているので、古本屋を応援する意味でも、積極的に使うことにしている。
 さて、『批評の解剖』だが、まだ序章がやっと終わった所までしか読めていない。
 序章では、批評が陥りがちないくつかの陥穽について、警句を発しているという印象だった。語気が少し強いけれども、批評のあるべき姿に向って進もうとしている姿勢は見えて、今のところ読みたいと思わせられている。
 曰く、批評なんかなくたって鑑賞することはできるよ、作家も純粋に作りたいものを作っていればいいものが出来るはず、などというのは誤りで、そこに正確な批評的視点がなければ、人びとは正確にそれらの価値を知ることはできなかったし、作家も方向性を考えることができない。
 曰く、批評は科学と同じ道を歩むべきで、現在行われているような、批評家の主観や個人史によって、個々別々の結論に至ってしまうようなものは完全ではない。確たる方法によってなされるべきである。少なくても、公準、軸となるものが必要である。
 そうするには、一人の人間には踏破しきれないくらいの領域を、見渡せる視点が必要で、批評が具体的にどう進むべきなのか考える人が必要になる。

 等々。これが書かれたのが1950年代で、まあ、今の未来の視点からすると、そこまで合理的なジャンルになるに至ってはいないわけだが、何かしら批評というものに対してのその確たる視点みたいなものが得られるのではないかと思い、続きを読むことにしよう。

 電車の中でこれを読んでいた。先頭車両に乗っていて、景色が横ではなく放射状に流れていると、いつもより早く次の駅が来るような気がして、なんだか不思議な気がした。午後から雨が降り始めた。一日中、どんよりとした日だった。

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