プレゼントの意味【やさしい脳科学】
記念日、誕生日、お祝い、お詫び、様々なシチュエーションで私達は物を贈ったり、贈られたりします。
想いと共に生きる
思い出が詰まった贈り物。それを持っていると、あるいは身につけていると、贈り主の心が感じられて嬉しくなり、元気や力が湧いてくる。そして心が落ち着くものでもあったりもする。
実は、贈り物には重要な意味があるのです。
禅語の『把手共行(はしゅきょうこう)』は、心から信じられる人(あるいは本来の自己=仏様)と手を取り合って人生を歩みなさい、との意味。
大切な贈り物は、大切な存在である贈り主の想いと共にいる、ともに生きている、ということになります。
贈り物とは
贈り物は、誰かから手渡された瞬間に「モノ」がモノではなくなるのです。
『世界は贈与でできている(近内悠太)』のこのような一文を読んで長年の疑問めいたものがなんだかわかったように感じました。
贈られたものが市場に販売されている商品であるとすれば、自分でも買うことが出来ます。しかし贈られた物には贈り主による「思い」が商品に付加され、余剰を帯びているのです。この『余剰分』は自らで購入した際にはついていないのです。
この『余剰分』があることによって、つまり贈り手の「思い」がある故に、貰った贈りものを破損させたり、無くしたりするととても悲しい気持ちになったりするのです。
無償の愛
さらに腑に落ちました。
『親が孫の顔を見たがる』
この台詞はまるで、あるあるネタのようです。
しかしここには理由があるのです。
当然ですが、親は子供を理由なく愛します。自らの心血を注いで、時間と財産を使って。
子供は理由もなく無償の愛を受け、不当に愛されてしまったという負い目を負うのです。
子供はやがて成長して結婚し、その子供を産み、育てます。
この行為が親からの愛に対する「反対給付」となるのです。親は、子供が自らの子(つまりは孫)を理由なく愛している様を見て、自分達が我が子を理由なく愛して来たことに対して、その理由を確認出来るのです。つまり子供が「他の人を愛することが出来た、そのように育ってくれた」という確認です。
ここでは「反対給付」が贈り手になされるのでなく、別な相手になされるのです。それは親→子→孫という流れになされることになります。
目に入れても痛くない
そうして孫が生まれる段階では、親は自らの子育ての時のような義務と責任からは既に解放されていますので、孫をある意味「無責任に」溺愛することができるのです。
贈り物による幸福
脳科学的には、我々は自らにモノを贈る。つまり自分で「自分自身のためにモノを購入すること」と、「誰かへとモノを贈ること」のどちらの行為が幸せを感じるかということを調べましたところ、
「誰かへとモノを贈ること」つまりプレゼントすることが、より幸福感を得ていることがわかっています。
他者の幸せを願う
マインドフルネスには、『慈悲の瞑想』というものがあります。
家族や愛する人、同僚、お世話になった人、道ですれ違う見知らぬ人、全ての生き物などが「幸せでありますように」と願う。
この瞑想によって自らの精神も落ち着き、満たされるというのです。
利他のこころ
『自利利他』という仏教の言葉があります。
【自利利他】仏語。自利と利他。自利とは、自己の修行により得た功徳を自分だけが受けとることをいい、利他とは、自己の利益のためでなく、他の人々の救済のために尽くすことをいう。この両者を完全に両立させた状態に至ることを、大乗仏教の理想とする。
そのなかで経営の神様とも称せられる京セラ創業者の稲盛和夫氏は、
「自分を犠牲にしてでも他人を助けよう」
「利他の心を判断基準として行動することが大切」
と経営において、他者の幸福 (=利他)を重要視されました。
おわりに
「誰かの幸せのために」や「喜ぶ顔が見たいから」
そうやってプレゼントを選ぶ過程は、愉しい時間であると実感することがあります。
大切な人へと贈り物を贈って、少しでもこの閉塞感のなか幸せを得られれば、と思う今日この頃です。
おしまい
最後までお読みいただきありがとうございます。 いただいたサポートは麦チョコ研究助成金として大切に使用させて戴きたいと思います。