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ラン

思わず駆け出していた。
一歩踏み出したら次の一歩、テンポよくリズムを刻み始める。
あまりに心地よくて、どこまでもいけそうな気がした。

「ちょっと散歩行ってくる」
少し体を動かしたくて、家を出た。
本当は走るつもりなんてなくて。ただのんびり歩きたかった。

スポーツ用の長袖Tシャツに、ランニング用のロングタイツ、高校の陸上競技部のウインドブレーカー、ネックウォーマーとランニングシューズ。寂しくないようにWALKMANとワイヤレスイヤホン。
少し体を動かしたいという動機にしては本格的な服装。
走るつもりだったのではない。ただ、動きやすく寒くない服を選んだだけ。スニーカーで長いこと歩いて脚に負担をかけたくなかっただけ。

走ることが何となく怖かった。
スイッチが入って全力で走って燃え尽きてしまいそうな気がしたのだ。

スイッチを入れないように音楽も陸上競技から離れてから聴き始めたもの。当時聴いていたものだと走りたくなりそうだったから。

順調だった。スタスタと15分ほど歩いた。
ついフォームを意識してしまう。体の軸はまっすぐ、手足のタイミング、接地の瞬間もう片方の脚の膝は軸足よりも前に…。

歩いているだけじゃつまらないなあ。
そう思ったのが先か、体が動いたのが先か。

駆け出していた。

風が心地よい。
競技から離れて時間がたっても、筋力や体力が落ちても体がリズムを覚えている。
そんな速度で走るからすぐ息が上がるしすぐ疲れるのだけれど、そんなのどうでもよかった。

好きだった。ただただ好きだった。
かけっこは比較的得意だったと思う。
練習したらそれなりに速くなった。高校ではそれなりの結果も出した。
でも決して目立つ選手ではなかったし、才能がある選手は他にたくさんいた。
好きだから走っていた、好きだから速くなりたくて努力した、ただそれだけのこと。

腰を落とさず、体を一本のまっすぐな軸にする。
体幹の筋肉を使って体がぶれないように。脚の付け根からしっかり動かす。
高校時代指導された走りを自然としている。
軸が曲がりそうになっていたら体を一本の軸にするようなイメージでその場でジャンプしたり、脚の運びが遅くなりかけていたら立ち止まって脚の付け根の筋肉に刺激を入れたり、手足のタイミングを確認したり。

走る、自分の体さえあればできる、そんなシンプルな動作。
シンプルだからこそ難しい体の使い方。

夕暮れが近づいてマーブル模様になった空が綺麗だ。
朝日を浴びながら追い込んだサーキットトレーニング。
追い風を使ってどこまで加速できるか挑戦した夏の夕暮れ。
暗闇で伸びていく影を必死に追いかけた冬の放課後。

すれ違う風が私の頬を撫でる。
走るのが楽しい、それだけでよかった中学1年生。
人に練習しているところを見られたくなくて、頑張っていない風にして、さらっと結果を出したいと思っていた中学2年生。
人の目なんて気にしている場合ではなくて、とにかく自分の思った通りのレースをするためにもがいた中学3年生。
強くなりたい、それだけ考えていたら終わった高校1年生。
夏に思ってもみなかった結果が出て来年が楽しみだと思いきや、冬にスランプに陥り泣きながら無理矢理笑顔を作って練習していた高校2年生。
最後の総体、勝ち上がったものの自分に負けたレースが多すぎた。最後のレースで自分に勝てたけれどあと一歩目標には届かなかった、最高に輝いていたけれど最高に悔しかった高校3年生。

向いていたか向いていなかったかなんていまだによく分からない。
分からなくたっていい。私の青春にはいつだって陸上競技がいた。

雨は嫌いだったけれど雨のなか思いきり走るのはかっこいいと思っていた。
走るフォームの改善のために行う細かい動作は不器用で苦手だったけれど、上手だとかっこいいし速くなれると思って必死に練習した。
体がよく動いて、一歩一歩加速できている感覚がしたときは気持ちよかった。
初心者用の脚への負担が少ない形状でシンプルなデザインのスパイクから、中上級者用のスピード重視型の派手なデザインのスパイクに買い換えたときは速くなった気がしてワクワクした。
試合の日はビビッドピンクの靴下を履いて、紺色のスパイクからちらりと見えるようにするのが好きだった。足元を見るとかっこよくてときめいたし、やるぞ!と気合いが入った。
中学生のときからリレーはほとんど第一走者だった。自分の走りで0からレースを作っていく、道を切り開いていく感覚が好きだったし、チームでその立場を任せてもらっていることに誇りを持っていた。

もう誰とも勝負しなくていい。
頑張らなくていい。好きなように走ればいい。

風を切って走るのが気持ちいい。
地面の反発をもらって進んでいくのが楽しい。
一歩一歩刻まれるリズムが心地よい。
それを味わいたい、ただそれだけの理由で、走っていいのだ。

競技から離れて一度も買い換えていないシューズ。
かなり使い込んだし、そろそろ買い換えてもいいかもしれない。
走る楽しさを、一緒に味わうお供、探しに出かけようか。

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