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オリンピックとパラリンピックとマスゲーム

 東京オリンピックの開会式と閉会式。パラリンピックの開会式を、途切れ途切れに見た。

 特にオリンピック。直前までのドタバタはいったい何だったのだろう。椎名林檎も野村萬斎もいなくなった。確かリオデジャネイロで流していたのは、ピチカート・ファイヴの「東京は夜の七時」だったよね。小西康陽ではなくて、なんで小山田圭吾だったんだ。今さら渋谷系と言われてもって気がするけどね。きゃりーぱみゅぱみゅでよかったんじゃないか?KAWAIIを世界に発信することに徹してもよかった。前総理がマリオに扮してまで、何をしたかったのか。伝えたかったのか。

 途方もない徒労と脱力感と、ようやく始まるのかというのと、本当にやれるのかということと。そして、いったい日本は、世界に向けて何を発信したかったのだろうという想いが再び循環する。震災五輪ということばもいつしか消え、コロナに打ち勝った宣言どころか、敗走に近い現状、惨状を見るに、最終日までいったい何が行われているのかわからなかった。

 この辺りについては既に多くの人が書き、また呟いてきたのでぼくは語らないことにする。

 ぼくが東京オリンピックの開会式の生中継を見て思いだしていたのは、平壌で見たマスゲームのアリランのことだった。

 それは圧倒的だった。2万人だったか10万人だったか。たぶん前者。それだけの演者が織りなすマスゲームは美しいの一言に尽きた。

 その美しさは礼賛だけを意味しない。心の奥底を、ぞくっとさせるものだった。ぼくはとんでもないものを見ているという、心の震えが止まらなかった。

 およそ芸術というものからは縁遠い、またセンスがないぼくだが、心胆寒からしめたのは、既に平壌を覆っていた秋、冬の大陸の空気だけのせいではなかった。

 これこそが国威発揚なのだ。それは凝縮されたメッセージであった。いかに、北朝鮮という国が独立し建国され、戦争と外圧に対し、また未来を描くか。見事なる一大絵巻であった。デジタルではなく、徹底したアナログで表現された。

 そこにはとんでもない手間と時間と、人力がかかっている。同じことは絶対出来ないであろう。日本でも、他の国でも。

 100ユーロだったか。1万数千円だかの金額を払ってぼくは2度、マスゲームを見た。全然惜しくはなかった。それだけのものだった。

 コロナがこれだけ蔓延し、たぶんこれからもずっと世界は密を避けていくしかない。密の結集ともいえるマスゲームなんて、もう見ることは出来ないのかも知れない。

 多くの人はいうだろう。あれこそ洗脳だと。あるいは独裁だと。そう断じてしまうのは簡単だ。

 だが国威発揚という意味で見ると、あれほどのものは無かった。はるばる北朝鮮までやってきた奇矯なる日本人はその凄みを知った。
 
 国威発揚に国を挙げて賭ける意気込み。演出。動員力(その副産物として、貴重な外貨収入源の一面がある)。その凄みを知った眼で見ると、東京オリンピックの開会式は児戯にすら見えた。ただそれっぽい、日本ぽいものを無理やりに詰め込み、過ぎて行く時間をただこなしているだけに見えた。

 鳥肌実ではないが、結局訴えたいことなんてないんですってことだったのではなかったのか。もう世界に訴えることも、その力も日本は失ってしまったのではないか。あの祭には、衰退ということばが最適解だろう。

 もし、あなたにチャンスがあるのなら、北朝鮮でマスゲームを見て欲しい。国が威信をかけて訴えるメッセージを全身で浴びて欲しい。

 その評価は人それぞれとして。

■ 北のHow to その124
 マスゲームは席によって値段が違います。特等席、一等席、二等席だったかな。特等席がいいかというとそうでもなく、少し離れた席の方が全体を見渡せます。ぼくは確か一等席と二等席で見ました。大満足でした。

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