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LIVEという固有性

私は音楽番組が好きである。昨日も19時から日テレで放送されたプレミアムミュージックという音楽特番を視聴した。番組では松田聖子や中森明菜、ジュディ・オング、八代亜紀といった昭和世代から、SPEEDや浜崎あゆみの平成世代、あいみょんやLISA等の令和世代まで、幅広い層が楽しめるヒット曲を扱っていた。

放送の仕方としては過去の映像で振り返るアーティストと、スタジオで生歌唱するアーティストで分かれており、主に前者が多かった。スター誕生の映像は少し前まで話題だった虹プロを彷彿とさせ(見てはいないのだが)、今も昔もオーディション番組というのは人をワクワクさせるのだと感じたし、ジュディオングの美しさは令和でも顕在で、例のあの大きな羽はやはり見ものだった。

しかし何故だろう。同じ歌っている姿を見ているにしても過去の映像と生歌唱とで、全然感情の揺さぶられ度合いが違うのである。

似た思いは以前から感じていて、去年乃木坂46の白石麻衣の卒業コンサートをオンラインで視聴する機会があった。私は楽天アカウントで参戦したのだが、楽天組はサーバーダウンにより途中からしか見られなかったので、ライブ終了後も見逃し配信を視聴できるようになっていた。私は現在進行形で見ている時は主要メンバーの卒業ということもあり、別れの寂しさやまいやんに対するメンバーの深い愛情を感じられる場面のあまりの多さに感極まり、全ファンの号泣を誘致させるようなシーンも多かった。そして終了後、もう一度あのパフォーマンス見て感動を味わおうと見逃し配信(録画配信)を視聴した。しかし何故だろう。当然だが、全く同じ映像でメンバーの表情も全く変わらず全く同じ歌とダンスなのに、二回目ということを鑑みても明らかに感動レベルが低下していたのだ。

不思議だ。

内容は同一であっても、むこうとこちらの時間軸が違うという事実一つで感情の動き方は全く違うものになる。

その理由を考える時、このコロナ禍にヒントがある。コロナ禍で出来なくなったことは幾千もあるが、その多くに共通することは時間と空間の共有だ。

例えば食事がその一つだ。誰かと食事を共にすると「同じ釜の飯を食う」という言葉もあるように、それまでよりなんとなく距離が縮まったように感じられる。それは、相手と同じ時間に同じ店、つまり空間を共有することで一体感が生まれ、無意識に誰しもの心の根底に存在する孤独心を分かち合うことができるからではないだろうか。

ライブや音楽番組でも同じことがいえる。アーティストの歌やパフォーマンスを生中継によって同じ時間、ライブ会場という同じ空間、それができなくてもテレビやスマホという媒体を通して疑似的に同じ空間を作り出すことで、時間と空間を共有する。そうすることでアーティストが歌を通じて伝える感情と私たちが受け取る感情が一体化し、孤独心を分かち合うことができる。音楽イベントをライブ中継という形式で開催する意義は物凄く大きいのだ。

だから好きなアーティストができたらまずライブに行きたくなるし、時代は変われど音楽番組は中継されるものが多い。

ここまで書いていたらLIVEに行きたくなってきた。早速申し込んでみるとするか。







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