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【短編小説】あくたもくた

 翔吾は決まって13時36分にこの部屋に来る。
 部屋の空気が一斉にドアの下の隙間目掛けて走り始めるけど、三歩くらいで直ぐにゆっくりとこちらに戻ってくる。機密性の高いこのマンションは、誰かが玄関を開けるたびに部屋中の空気が同じ行き来を繰り返す。
 スニーカーを乱雑に脱ぎ捨てる音が聞こえたあと、横の傘立てに一回ぶつかってから、僕の部屋の前まで四歩。今度は勢いよく開いた扉に押されて、ベッドに横たわる僕の顔の前を僅かな風が通り過ぎる。

「間に合った?」

 少し息の上がった状態の翔吾が、申し訳なさそうな顔で言った。

「大丈夫、ありがとう」

 みしみしと音の鳴りそうな上半身を右手で支えながら起き上がると、僕は今日初めて地球と垂直になった。若干立ちくらみを起こしながらもドアの方に近づくと、翔吾は少し横にずれて僕を通してくれた。横断歩道を渡るように左右を確認してから、斜め向かい側のトイレのドアに小走りに進み、バタンと音がしないようノブを下げたままドアを閉める。便座に座って深呼吸をすると、吐いた息と一緒に勢いよく放尿した。

 今日はいつもより少し早く昼前に起きてしまったので、危うく膀胱が破裂するところだった。部屋に転がっている空のペットボトルに出してしまおうかと、翔吾が来るまでの間に十回くらい考えたけど、以前同じことをして部屋中に尿の臭いが充満したことを思い出しては、あとちょっとで翔吾が来るからと自分を鼓舞し続けた。アンモニア臭から逃れるように布団を被ってうずくまり、暑さと惨めさと情けなさとで、絶えず流れ続ける汗と涙と鼻水。あんな思いは二度としたくなかった。

 先程と同じように左右を確認してから素早く部屋に戻ると、翔吾は勉強机の上に座っていた。左手で学ランのお腹あたりを掴んでバサバサと動かしながら、唇を胸の辺りに向けてふーふーと息を吐いていた。その都度、学ランの隙間から学校のあれこれが舞い上がるようで、僕は思わず壁に添いながら足速にベッドに滑り込み、鼻の頭までタオルケットを被った。

「良樹わかる?サッカー部」
「世良くん?保育園一緒だった?」
「そう。明日隣のクラスの女子に告るんだって」

 机から降りると、横に積んである段ボールの中から適当なノートを引っ張り出して、団扇代わりに扇ぎながら翔吾が言った。

「へぇ…」
「あ、にいちゃんもやっぱ興味ない?こういう話。俺全然ピンとこなくてそういうの」

 眉毛をハの字に下げて、へらっという間の抜けた効果音が似合う笑顔で答えると、翔吾はまた机の上に座った。学ランの第三ボタンまでと、ワイシャツの第二ボタンまでを開けると、先程まで拡散されていた学校のあれこれよりも翔吾のそれが上回った。汚染され始めていた僕の部屋の空気が、翔吾の匂いで中和されていく。息のできる場所が戻ってきて、僕はタオルケットを少し下にずらす。
 そこから特に何かを話すこともなく、僕と翔吾は互いにスマホを覗き込む。夏休みが明けてしばらく経った九月十二日から、僕達は平日のこの時間をほとんど同じように過ごしている。初めは翔吾が部屋に入ってくること自体を嫌がっていた気もするけど、今はもうその時の気持ちは思い出せない。当たり前の日常にすり替わる瞬間を見逃したまま、僕にしては珍しくこの状況を素直に受け入れていた。

 13時47分になると、翔吾は飛び跳ねながら机から降りる。ドスっと階下に響く不快な音を立てたあと、脊髄のクッションを一つ一つ持ち上げるように大きく背伸びをする。

「はぁっ!五時間目、数学!寝たい!」
「どうせ寝るじゃん」
「それなー」

 翔吾は頭を掻きながら机の引き出しを開けると、小さくあれ?と呟いて、僕のほうを見た。どこ?と聞いてきたほんの一瞬、瞳の奥が薄灰色に濁ったように見えた。

「あぁ、そっちの段ボールの中」

 クローゼットの前にある小さな段ボールを指差すと、翔吾は封を閉じていたガムテープを躊躇なく剥がして、中から朱色のでんでん太鼓を取り出した。

「はい、祓って」

 子供みたいに腕を真っ直ぐに伸ばして僕に太鼓を渡した後、ベッドの横に正座をして目を瞑る。その姿は、まだ幼かった頃の翔吾のままみたいで、随分前に僕の身長を追い越したバスケ部のエースには到底見えなかった。再び動きに慣れていない身体をゆっくりと起こすと、手渡されたでんでん太鼓を翔吾の頭の上で数回鳴らす。でんでんでんでんと軽妙な音が鳴り響くと、この部屋の全てが一緒になって震え出す。その一鳴り一鳴りの振動で、それぞれに纏わりついていた余計なものが振り落とされていく。僕達にはおよそ必要とは思えない、生きていく上での障害となる悪感情や、そこに巣食う自己嫌悪の素であったり、惨めさの根源や嘲笑の幻聴や、覚えたばかりの愉悦でさえ、そういった色々が全て0に戻される。
 亡くなった祖父の買ってくれたこのでんでん太鼓の音には、多分そんな力があった。誰に聞いたわけでもないし、お互いに話したこともないけれど、きっと僕も翔吾も、お互いにそれがわかっていた。

「終わり」
「さんきゅー」

 乱暴にでんでん太鼓を奪い取ると、翔吾は机の引き出しにそれを戻した。

「え、戻してよ。段ボール」

 僕の声に構わず引き出しを閉じると、そのまま翔吾は部屋から出て行こうとした。思わずベッドから降りて引き留めようとすると、ドアの前で翔吾は振り返った。

「それ、そのまま置いてってよ。明日も俺来るから」
「いやいや、明日から僕いないって。何しに来るの?」
「お祓い」

 少しも笑わずそう話す翔吾の瞳は、やっぱり薄灰色で、肉眼ではもう随分と見ていない冬の薄曇りの空みたいだった。そこに懐かしさを感じられないのは、つい昨日、お風呂場の鏡で同じ色の瞳を見ていたからだった。

「大丈夫、お母さんいる日はやめとくよ。お父さんにももちろんバレないようにする」

 心配すんなって、とまた柔らかなスポンジみたいにふにゃふにゃとした笑顔を見せると、翔吾はそのままドアを閉めた。傘立てにぶつかる音が聞こえたあと、踵を潰したままのスニーカーをパカパカと鳴らしながら玄関ドアを開ける。浄化された空気達がまた隙間目掛けて競争をした後、少し濁った廊下の空気が一緒に戻ってくる。

 ここから丸一日かけて、少しずつこの部屋は汚れていく。次のお祓いまでに、僕が垂れ流し続ける薄汚い暗闇が、あらゆる物にへばり付いて増殖していく。でもそれも、荷造りを終えた今日は少なくて済みそうだった。封の閉じられた段ボールの中身達は、昨日のお祓いの直後に仕舞ったものばかりだったから、きっと明日は0の状態で持っていけそうだ。

 少しの家具だけを残して、ほとんど空っぽになるこの部屋で、翔吾は明日から何を祓うのだろう。父に好かれ、友人も多く、学校にも難なく通えている僕とは正反対の翔吾。この家の中で、いつだって正義は翔吾の中にあって、悪である僕は明日から父の手配した山奥のフリースクールへと追いやられる。この家族にとって、最も最善の方法だと僕自身も思ったし、父にはもっと早くそうしてもらいたかった。毎日こうして必要のないものを祓い続けていた僕には、どうして父が、父にとっての不必要なものをさっさと祓わないのかが不思議でしょうがなかった。きっと母が何かしらストップをかけていたのだと思っていたけれど、翔吾もまた同じことをしていたのかもしれない。でもそれは、母の僕に対する愛情の一片とは違って、翔吾自身の必要のないものを祓う為だったのかもしれない。僕がいることで、祓えるものがあったのかもしれない。

『何を祓ってたの?』

 授業中のはずなのに、送信したメッセージはすぐに既読が付いた。ちゃんと勉強しろよと心の中で呟いている途中で、すぐに返事が返ってきた。

『にいちゃんにしか、わからないもの』

 しばらく画面の文字を眺めながら、また翔吾の瞳を思い出していた。自分の瞳は、いつからああなったっけ?翔吾はいつからだったのだろう。僕とは別のルートを辿って、どうして同じところに行き着いてしまったのだろう。

 ゆっくりと起き上がって机の引き出しを開けると、でんでん太鼓が無造作に置かれていた。そっと持ち上げて振ってみると、とんとんと遠慮がちに音が鳴った。僕は少しずつ流れてくる涙の軌跡の冷たさと、星の始まりのように湧き出した胸の奥の温もりを感じながら、でんでん太鼓をぎゅっと握った。

(了)


食費になります。うれぴい。