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言葉を交わすことの意義〜Awich「THE UNION」を聴いて


Awichさんの新作アルバム「THE UNION」がリリースされました。
女性ラッパー達とのコラボレーション作品や、沖縄コンピレーションEP等、今年も話題作を数々発表していた彼女。
アリーナライブを目前に控えたタイミングでのフルアルバムリリースは不意打ちで、私は歓喜すると共に「働き過ぎでは?」と少し心配になってしまいました。

序盤から「レペゼン沖縄」然とした楽曲が続き、彼女の現在の勢いそのままに、それでいて苦悩や葛藤も包み隠さず曝け出すスタイルに圧倒されました。
また「Call on me」「かくれんぼ」など、00〜10年代を彷彿とさせるアレンジの楽曲も散りばめられていて(特にかくれんぼは安室ちゃん味が強くてトゥンク…)、普段ラップやhip-hopは聴かないというアラサー・アラフォー世代でも胸に響くのでは?と思えるアルバムに仕上がっていました。

一曲一曲について語りたいところだらけなのですが、その中でも「口に出して2」〜「Interlude」〜「Burn Down」の流れが特に素晴らしく、夜勤の休憩中、事務所で一人嗚咽を漏らしてしまいました。


SNS時代の功罪

デジタルネイティブ世代が思春期を迎え始めている現代。コロナ禍も経て、直接人と言葉を交わす機会は更に減ったように感じます。
活字でのやり取りももちろん良い面はありますが、やはり画面越しでは実際に相手と対峙した時の覚悟が違ってきます。
言葉の端々に宿るニュアンスや、表情の微妙な動きから相手の真意を汲み取る術は、訓練をしないと身に付かないものですし、怠っていると精度が落ちていきます。
自身の対人スキルが露わになるのはもちろんのこと、知識や教養といったものを取り繕う時間を与えられない場で、言葉を交わす際の瞬発力が求められるのです。

このような場面で、(あくまで主観ですが特に男性の場合)プライドの高さが邪魔をして「黙り込む」という手法で以って体裁を取り繕おうとする人間がいます。
或いは他人への過剰な配慮から、自身の感じる不平不満を飲み込んでしまう人も多くいます。
どちらの場合も、自身の気持ちをその態度や表情から汲み取ってもらおうという、相手の想像力に依拠した姿勢が見て取れます。
ある程度の関係性を築けた同士のことなら「以心伝心」として処理されることもあるかもしれませんが、基本的には甘えだと思われるでしょう。

ただ、この二種に当てはまらない沈黙のケースがあります。相手からの言葉について、自分がどう思ったのかを瞬時に判断できない場合です。
「自分の感情を言語化し相手に伝える」というのは、実は非常に難しいことなのではないかと思うのです。
ある程度の大人になると当たり前のスキルとして社会的にも要求されるものですが、そもそも自身の感情に疎い人というのは多くいるものです。
そしてその感情の生まれる根源を理解するのに時間を要する人にとって、まずは自身の今現在の感情を精査する為に、その場での沈黙を「選択せざるを得ない」場合もあるのです。

直接お話をする機会の極端に減った現代において、このタイプの人間は増えているように感じます。
私は仕事上10〜20代の子達と接することが多いのですが、何か自分のことを指摘された際に黙ってしまう子が10年前に比べて明らかに増えています。
最初はそれを「自分の立場が不利になるとすぐ黙っちゃうの困るなぁ…」くらいに思っていたのですが、ほとんどの子達が数日後に「あの時言われたことについてこう思っていた」と伝えてくれることが多いのです。
そこにあるタイムラグを話し相手が理解していないと、「打っても響かない」「理解が遅い」というジャッジを下されてしまうのではないでしょうか。
これは双方にとって何の益も生み出さない結果となってしまいます。

瞬発力の必要な口頭での会話と、返答に時間を費やせるテキストでのやり取り。
それぞれ一長一短ありますが、前者のスキルがSNSが当たり前の世代ではそもそも身に付いていないように感じます。
そして、本来そのスキルを身に付けていた我々世代にも、その低下が認められるのです。


「ちゃんと口に出して言って」

そこにきて、この「口に出して2」。
もちろんhip-hopらしく、性的なダブルミーニングも含んでいるのですが、前作「口に出して」よりもそのような表現は鳴りを潜めています。
むしろ、大切な人間の気持ちを汲み取ることのできない苦悩や、その本心を言葉として捉えて安心をしたい気持ちが前面に出ています。
自分の気持ちを口語で上手く表現する術を失いつつある我々にとって、彼女の言う「全部口に出して言って」というリリックは、真正面から眼線をロックされたような居心地の悪さを感じるのではないでしょうか。
少なくとも私はこの楽曲を聴きながら、過去友人に向けて言えなかった本心や、妻との喧嘩で黙り込んでしまった場面などが頭の中を駆け巡っていました。
この楽曲を通して色々を思い出して「ああぁあぁぁぁあああぁぁぁあぁあぁぁああぁ!!!!!」となるのは、男性の方が多そうだなと思います。
女性はむしろ共感する人の方が多いのではないでしょうか?


Can you hear me!?

自身の過去を内省しつつ、次に耳に流れてくる「Interlude」では、「口に出す」ことについて語る様々な音源がコラージュされています。
始めは口に出してみることについて比較的ポジティブなものが並びますが、途中で挟まれる

「本当の気持ちを口に出せずに、命がまた一つ燃え尽きました」

という一文に、私は戦慄しました。
上に書いた通り、我々は世代関係なく本心を口に出して相手に伝える機会を失いつつあります。そしてその本心自体を認知する能力も衰えてきており、自分が何を感じ、どのような欲望を抱いているのかすら分からなくなってきています。

しかしそれは、隠す本心の数そのものが減っているということではないのです。
認知できていないだけで、或いは外的放出が為されていないだけで、私達の中で燻る多様な感情は常に心の奥底で渦巻いています。

その本心を誰にも打ち明けることが出来ないまま、燃え尽きてしまった命がある。
そこにはもちろん、苦悩や葛藤といった痛みを伴う気持ちが大半を占めるかと思われますが、喜びや感謝といったプラスの感情すらも含まれているのではないでしょうか。
苦しみの中で手を差し伸べてくれた人々に対してすら、どのようにコミュニケーションを取ればいいのか分からずにリタイアしてしまった命達について考えずにはいられません。

口に出して相手に伝えることの大切さ、相手に対するその切実な願いを唄った後に流されるこの短いInterludeだけで、楽曲の視点を「口に出してと願う人」から「口に出したくても出せない人=黙り込んでしまう人」側へと転換させています。
そして砂嵐の音の後に流れる「Can you hear me!?」という叫び声と共に、次へ続く楽曲がこの叫びを抱え込んだ人間の唄であることを告げるのです。
僅か20秒の間でこれだけ鮮やかに曲間を繋いでいく手法には、天晴れとしか言いようがありません。


絶望の中にも残される光

物語は「Burn Down」へと続いていきます。
この楽曲は、Interludeの流れを受けて、昨今のSNSを起因とした様々な事件・事故についての鎮魂歌だと感じました。
Awichさんの書くリリックでは、SNSに嵌り始めてから世間的に認知をもらい、その後悪意を向けられ始めるまでの過程が、無駄のない秀逸な言葉選びと共に鮮明に描かれています。
その後に続くGADOROさんのリリックでは、悪意を向けられた末に燃え尽きることを選んでしまった命についてと、それに対するSNS上の反応を非常にリアリスティックに綴っています。

特に「逃げた訳じゃねえ 逃げれなかった 思い出をくれた人が思い出になった」というリリックに、私は涙が止まらなくなりました。
またその後、一つの命が散ってからも、何事もなかったかのように同じことが繰り返されていく様子がグロテスクなまでに細かく表現されています。
そんな救いようのない現状を憂うような「今日、人はそんな日々を平和と呼ぶんだね」という彼の遣る瀬無い声で、楽曲は一旦収まります。

しかし、そこから新たな展開へと続きます。
子供達のコーラスと共に唄われるのは、これまでに描かれてきたSNSの闇の部分とは正反対の側面。本来フォーカスされるべきインターネットの明るい未来についてです。
多種多様な人間同士が、その考えや価値観、行動原理についてを理解し合い認め合って協働していく。
それにより構築されていく温かな世界についてを、次世代の声に乗せて唄い上げていく。
この部分を聴いて、私は椎名林檎さんの「ありあまる富」という作品を思い出しました。

一人ひとりに元から備えられた魂の大切さや重要性を説いている「ありあまる富」に於いて、林檎さんは大サビで杉並児童合唱団のコーラスと共に、
「価値は生命に従って付いている」
「ほらね、君には富が溢れている」
と優しく語りかけます。

本作でAwichさんも、子供達の唄声と共に
「don't let it break your  soul」
「don't let it take your soul」
と繰り返し訴え続けます。

自身の中にあるかけがえのない価値について気づかせてくれた林檎さんと、それを決して他人に奪われないように、壊されないようにと祈りを捧げるAwichさん。
自分自身の価値を認めること(所謂、自己肯定感というもの)の重要性が世間でも認知され始めた00年代後期と、それを今度は他人に奪わせないよう守り抜くフェーズに入り始めたアフターコロナの20年代。
まさに時代の流れを象徴するこの2作品を通して、私達が学ぶべきことは数多くあるのではないでしょうか。


次世代へ渡すバトン

責任を負う立場になった我々世代も、既にその立場になってから年月の経った先輩世代も、次世代の若者達とのコミュニケーションについて未だ手探りの状態であるように感じています。
まるで未知の生物とやり取りをするような感覚で、人によっては接触を避けてしまっている場面もあるのではないでしょうか。
しかし、日々その形を変えながらも進んでいく人間の営みの中で、それぞれの心の内に淀み続ける葛藤は時代の流れに左右されません。
感情というものの根底は地続きで、「共感」は必ず誰かと為され得るものなのです。
あなたと私の経験は全く違っても、その過程で会得した感情の要素に共通点を見出すことは難しいことではないはずです。

私達が今しなければならないことは、その共通点を、またはその相違点を直に話し合い共有し、お互いの理解を深め合うことなのではないでしょうか。
言葉として自身の気持ちを相手に伝えること。そこにはもちろん不躾で暴力的な姿勢は介在させず、やり取りをする相手の人格に対する想像力が欠かせません。
直接顔を合わせた状態でも、画面上での活字のやり取りでも、その前提に変わりはないのです。

人々を繋ぐツールとして人類史上最も優れた発明であるはずのインターネットが、本来の明るい力を発揮できるよう、我々は言葉を交わすということの重要性を、改めて考え直していかなければならない時に来ているのではないでしょうか。



〈余談〉アルバムという作品形態

ここ数年、若年層の間でレコードブームが起きているというニュースを耳にします。
現代の若い方々は、データとしての音楽と、所有する作品としての音楽とを上手に使い分けている印象です。
私が物心ついたときには既にCDが主要媒体となっていたので、レコードにそれほど馴染みはないのですが、自分にとって大切な作品は「物」として手元に残しておきたいという気持ちについては、首がもげる勢いで頷くくらいよく分かります。

私が思う「手元に残しておきたい作品」に共通しているのは、頭から最後までを通して聴く事で、新たな意味を生じさせるという点です。
これこそが正にアルバムという形態の醍醐味だと思うのです。
更にはジャケット写真や歌詞カード、パッケージに至るまで、アルバムをひとつの作品たらしめている要素は数多くあります。
楽曲配信が主流になることによって、制作と発表のタイムラグは大幅に短縮され、リスナーは作者の「今」を以前よりもフレッシュな形で受け取ることができるようになりました。
しかしその反面、時間をかけて作り上げられたアルバム作品が少なくなってきていることに、若干の淋しさを感じてもいます。
(めちゃくちゃCDが売れてた世代に生きていたのもあるけれど…)

まさしく今作「THE UNION」は、収録楽曲をそれぞれに聴くよりも(それでも十分に楽しむことはできますが)、各楽曲の物語とその繋がりに想いを巡らせながら聴き込むことで、作品発表者であるAwichさんの伝えたい気持ちがより彩度高く鮮やかに浮かび上がってくるのです。

CDでも発売してくれないかなぁ。



普段ラップを聴かないという方々も、今回の記事で語った楽曲だけでも是非一聴いただけたら。


食費になります。うれぴい。