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【小説】想い溢れる、そのときに(8)


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第一話とあらすじ





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8


 翌朝はすっきりとしない曇り空だった。所々でねずみ色の低い雲が風に乗って西の方へと駆けていき、ダボの庭では、葉の擦れる音が雨降りのときのように絶え間なく続いていた。アジョナは出窓に座り、じっと外を眺めながら退屈そうに尻尾を左右に振っていた。

「今日は雨は降らないよ。このまま、どんよりだ。」

 ダボの言葉にちらっと振り返ったあと、アジョナはその場で体を丸くしてごろんと寝転んだ。
 ダボが植物の葉に霧吹きをかけていると、玄関ドアがコンコンと二回鳴った。

「どうぞ。おはよう。」

 扉が開くと、俯いた真香が立っていた。手にはいつものスカビオサと、赤い別の花を握りしめていた。

「今朝、咲いていたの。」
「ん?…あぁ。」

 ダボが覗き込むようにその花に目をやったあと、表情が曇り始めた。ゆっくりとその花を真香から受け取ると、しばらくの間、会話をするかのように花を見つめた。

「お母さん、私のことで怒っている?」
「どうしてそう思うの?」
「何となく。ちょっと、こっちの花とは違う感じがして。少し、怖い…。」

 ダボは受け取った花をテーブルの上に置くと、本棚の隙間から小さな一輪挿しを取り出した。霧吹きの上部をくるくると取り外すと、中に残っていた水を一輪挿しに移し替えながら言った。

「アネモネにはいくつかの花言葉が付けられているんだ。『はかない恋』『恋の苦しみ』『真実』『固い誓い』『待ち望む』。それと、『見捨てられた』。」

 真香は部屋の扉近くに佇んだままでいた。ダボの言葉を聞きながら、丁寧に下葉を取り除かれてから一輪挿しに生けられていくアネモネをじっと眺めていた。

「私が、お母さんを?」
「うん、見捨てられたって、彼女はそう思っているようだね。」

 細い茎だけでは支えきれなくなったように、アネモネは少し首をもたげるように花を下に向けて静止した。ダボはその花を少し横向きに直して、一輪挿しを出窓の方へと置き直した。アジョナがちらと見やったあと、申し訳程度に体を反対側へずらした。

「ただ、赤のアネモネには『君を愛す』という言葉も含まれているんだ。彼女の、お母さんの今の正直な気持ちがとてもよく表れているんじゃないかな?」
「でも、私は見捨てたつもりなんか」
「もちろん。今だってこうして魂だけになっても、お母さんのことをしっかりと思っている。真香は本当に、いい子だね。それは彼女もちゃんとわかってはいるさ。」

 ダボは真香が持ってきた残りの花も同じように花瓶に生け始めた。ボウルに溜められた水の中で、パチンパチンと切られていく茎の破片が一本ずつ水面に浮かんでいく。真香はそれを見つめながら、先日見た母の姿を思い返していた。
 自分のことをいじめるかのように蔑ろにしながら、毎日のように真香を求めては涙を流す母は、かつて自分が共に生きていた彼女とは別人のようだった。これまで自分が見つめ続けた母という存在が、初めて一人の人間として、一人の女性として目の前に現れたようで、もちろん悲しい気持ちは十分にあったのに、その姿を見れたことに何故か少しの喜びも感じていた。
 そんなことを考えてしまう自分に嫌悪感を抱きつつも、もしかしたらこの先、自分が一人の大人の女性として生き続けることができていたのなら、私たちは対等な大人の女性同士、それぞれがまだ見たことのない姿を共有することもできたのかもしれない。あれは、もう叶うことのないその未来を、少し垣間見ることのできた喜びだったのだろうか。
 真香はまた自分の死に対する実感をひとつ得たような気がして、淋しさを抑えきれずに目を潤ませた。

「しばらく庭の様子を見ててごらん。日、一日と感情は変わるものだから。アネモネが咲いただけではまだ焦らなくても大丈夫。もちろん、今すぐにまた様子を見ることもできるけど。」

 ダボが出窓の方を見ると、アジョナは何も聞こえていないかのように相変わらず寝転んだまま曇り空を見つめていた。

「…わかった。また何か変化があったら、私が耐えられなくなったら、来てもいい?」
「もちろん。いつでも。」

 坂道を帰っていく真香の背中を見送ったあと、ダボはお茶の準備をしながら無意識に唄を歌っていた。軽やかな三拍子のリズムに乗せて、水の流れのように上昇下降を繰り返していくメロディライン。終わりに近づくにつれ、そのメロディは感情の昂るが如く勢いを増していく。終盤に何度も繰り返される詩を口ずさみながら、ダボはふと微笑んだ。

「Ich liebe dich. 君を愛す、か。」

 これは誰が歌ってくれていたのだろうか。相変わらず記憶の欠片すら掴めないまま、ダボは再び同じ唄を口ずさんだ。


(9へ続く)

食費になります。うれぴい。