見出し画像

【小説】想い溢れる、そのときに(9)

前回の話はこちら


第一話とあらすじ




9

 アネモネが咲き始めて四日が過ぎた。
 スカビオサは少しずつ数を減らして、アネモネと共に今度は小さな紫の花も見られるようになった。うなだれるように茎を下に向けて、細長い花弁は羽ばたく鳥のように空へ向けて反り返っていた。
 三種の花が咲き乱れる中を歩いてみると、真香はその悲しみや怒りに似た母の感情に囲まれ、取り込まれていくような気分になった。
 時折、母が直接自分に語り掛けてくるような気もしたが、何を言われたとか、どんな内容のことを伝えたいのかとか、そういった具体的なことはもちろんわからないまま、ただ母の自分に対する激しい感情の渦だけを感じ取っては、それに飲み込まれないよう必死に耐えることしかできなかった。
 ここで母の言葉をさらによく聞こうとしたり、自分の気持ちを直接伝えようとしたりすると、自分がこの場から消えてしまうのではという恐怖があった。ここから消えるということが、自分の魂にとってどんな意味を持つのかは知らなったが、直観的にそれは避けなければいけないと思っていた。
 しかしそれは同時に、母の助けになれない自身の無力さに耐えなければならないということでもあった。

 さらに一週間が過ぎたころの夕刻、いつものように庭を歩いていると、家の裏側のほうから新しい気配を感じた。幸福感とはまた違った、真香の知らない退廃的な安堵感がそこには漂っていた。
 足早に近づいてみると、家の壁に沿うように生えた平たく長い葉の間から、長く伸びた茎にいくつもの肉厚な白い花が咲いていた。その花の周辺は、頭の中に靄のかかるような甘く芳醇な香りが漂っていて、真香は思わずそのまま目を閉じて座り込みそうになった。
 しかし、この花もアネモネや紫の花と同様に、母の気持ちに溢れた花であることに違いはなかった。それでもこれまでのような悲しみや淋しさ、怒りのようなものとは全く別の種類の空気を感じ取って、真香は急に恐ろしくなった。確かに安堵を感じるのに、どうしてこんなにも心がざわついてしまうのだろう。
 花を摘むことはおろか、それ以上近づくこともできないまま、真香はダボの家へと向かった。



「久しぶりだね。…まずは座って。ゆっくりでいいから話して。」

 扉を開けたダボは以前と変わらない様子で迎えたが、真香の顔色を見てすぐに真剣な表情になった。

「小さな紫の花が増えたの。隙間に、アネモネの隙間にたくさん咲いていて。それでもそんなにお母さんの気持ちに変わったところは感じなかったから、大丈夫かなって。変わらないって言っても、相変わらず悲しい気持ちとかはずっとあって、私に対しても怒ってる感じだったの。ずっと怖くて。このまま私、どっかに連れていかれそうになってて。でも頑張ったの。一人でお母さん、受け止めようって。お母さんも一人で頑張ってるんだからって。」
「うん。大丈夫。真香はここにいるから。ちゃんといるよ。ゆっくりでいいから、ゆっくりでいい。落ち着いて話してごらん。」

 ダボに背中を摩られて、真香は何度か深呼吸をした。走ってきたわけでもないのに、肩が大きく上下に動いていることに気づくと、真香は自分の焦る気持ちを排除していくように、長く細く息を吐いた。

「小さな紫の花は、多分カタクリかな。どの魂達も、大抵は咲かせる花だよ。『淋しさに耐える』。みんなルートは違っても、必ず通るところだから。」

 呼吸の落ち着いてきた真香に、ダボは温かいお湯をカップに注いで渡した。いつもの椅子に座って何の味も香りもないお湯を一口ずつ飲み込んでいくと、先ほど庭で嗅いだ花の匂いがより鮮明に思い出された。

「家の裏にね、私の腰くらいの高さの、白い花が咲いていたの。たくさんの花が生っていて、すごくいい香りがするの。甘くて、頭がくらくらするような。でもいい香りなんだけど、お母さんも安心している感じに思えたんだけど。なんか、怖くなっちゃって。」

 カップを握る手は震えていた。呼吸は落ち着き始めていたが、真香はまた一口お湯を流し込んだ。

「香りの強い白い花…。蕾はあった?少し先端が桃色をしていなかったかな?」
「多分。ちょっと暗かったからよく見えなかったけど。」

 ダボは本棚の下のほうから、モスグリーンの背表紙の本を取り出すと、ふっと一息埃を飛ばした後、テーブルの上でページを開いた。細部まで描かれた花のイラストを指さしてダボは言った。

「学術イラストで申し訳ない。写真のものは今なくてね。これに似ていた?」

 モノクロの線画で描かれたその絵は、確かに先ほど見た花によく似ていた。

「これだと、思う。」
「チューベローズ、『危険な快楽』。性的な意味もあるけど、今の彼女のことを考えるとちょっと違うかな。花自体を見ていないから何とも言えないけど、真香が感じ取ったのなら、少し間違った方に行っているのかもしれない。」
「お母さんは?どうなっちゃうの?何が起きてるの?」

 隣の部屋からアジョナが歩いてくると、真香の足にすり寄ってにゃあと一声鳴いた。そのあとダボを見つめると、スカイブルーの瞳の中で黒い瞳孔が少しずつ縦長に変わっていった。

「…珍しく協力的だね。」

 ダボは引きつったように左の口角を上げながら、訝し気にアジョナを睨んだ。

「え?」
「ううん。真香、前に僕が言ったことは覚えてるかな?アジョナは世界の猫の出入り口だって話。」
「覚えてる。」
「そう、「出入り口」なんだ。僕はこちらから現世の魂に話しかけたりはできないと言ったけど、それ以外の干渉する方法がないというわけではないんだ。」

 アジョナはまだ真香の足の間を八の字に行ったり来たりして体を擦り付けていた。真香の白い靴下に徐々にアジョナの艶やかなシルバーの毛が増えていった。

「あの段階で君には伝えられなかったんだ。順番があるからね。こちらに来た魂よりも前に、実体を保った魂達の準備が整ってしまうと、この先に進めなくなってしまうことが多いんだ。自らの死を受け入れられないままなのに、あちらの世界では皆が前を向いて歩き始めてしまう。一人だけ取り残されてしまったように感じると、魂は行き場を失くして彷徨うんだ。そして最悪の場合、あちらの魂を連れてきてしまう。」

 ダボも椅子に座ると、両肘を突いて再びチューベローズの絵を見ながら言った。

「それは逆もまた然りで、こちらの準備が整い始めるあたりで、あちらの気持ちに引っ張られて魂が現世に持っていかれることもあるんだ。忽然と姿を消していった魂に、過去何度も出会ってきたけど、戻ってきたものも、そのまま戻らなかったものもいた。」

 傷を撫でるような手つきで花の絵にそっと触れて、ダボは真香の目を真っ直ぐに見つめた。

「この数日間、真香はちゃんと連れていかれずにここで耐えられた。自分の死を受け入れて、母親にも前を向いてほしいと心の底から願えるようになった証拠だよ。本当に、よく頑張ったね。」

 真香は再び体を震わせたが、今度のそれは恐怖からではなく、張り詰めていた心の線がダボの言葉によって緩んだからだった。

「アジョナを介して、世界の猫に繋がることができる。この前みたいにその猫の吸い取った魂達の感情を見ることができると同時に、猫に思いを託すこともできるんだ。ただ、前にも言ったように言葉をかけることはできない。人間達は猫の言葉がわからないからね。その代わり、花を贈ることはできる。」
「花を?」
「そう。君の気持ちに沿った花を。猫が見つけてくれるよ。たまに間違えてしまう子もいるけれど、そこはアジョナがちゃんと選んで、…ね?」

 ダボがテーブルの下を覗き込むと、まん丸に戻った瞳を向けてアジョナがまた歯をむき出しにして一声鳴いた。

「お願い。また、お母さんを見せて。」

 真香の言葉を聞いて、アジョナは膝の上に飛び乗った。

(10へ続く)

食費になります。うれぴい。