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【小説】想い溢れる、そのときに(3)


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あらすじと第一話



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3


 扉を開けると、ダボはいつもの椅子に座ってお茶を飲んでいた。アジョナはすでに部屋の中に戻っていて、本棚の僅かな隙間を埋めるように丸まっていた。

「おかえり。」

 ダボは目を合わせないままそう言うと、真香の手に握られている花をじっと見つめた。少し首を傾けると、ブルーブラックの前髪がさらりとメガネの前に垂れ下がった。

「…素敵だね。良い花だ。」

 真香はまだ自分の感情を抑えられない様子で、いつもよりも大きく足音を立てながらダボの目の前まで進んだ。それでも、何とか声が震えないようにとひとつ大きく深呼吸をしてから、ひと言ずつゆっくりと声を出した。

「この花は本当は何なの?当たり前みたくここにいて、あなたとお話していたけど、私ここがどこなのかそもそも知らなかった。知らなかったことにすら、今の今まで気づかなかった。」

 ダボに対する怒りが言葉と共に溢れていくのを真香は感じていた。この人に八つ当たりしても意味がないことも分かっているのに、あんなにたくさんの会話をしておいて、重要なことは何一つ教えてくれていなかったことが腹立たしかった。
 まるで一人だけ世界から取り残されていたかのような、ただ一人で戦わされていたかのような気持ちで一杯だった。

「自分で気づかないと、意味がないから。」

 ダボは表情を変えずにそう答えると、椅子から立ち上がり、書棚から一冊の本を手に取った。
 若干色あせたワインレッドの丈夫そうな表紙は、ところどころスエード状の毛が潰れていて、金糸で「18092783」と数字が刺繍されていた。ダボが真ん中あたりのページを捲ると、そこには一枚の写真が貼られていた。

「君だよ。かわいいね。」
「私は…死んだの?」
「質問形式じゃなくて、自分で気づいたことを僕に聞かせてよ。」

 ダボは左の口角を少し上げながらそう言うと、タオルケットの端を口に咥えながらカメラ目線を送る赤ん坊の写真を優しく指で撫でた。

「私はもう、死んでいて。お母さんはまだ、生きてて…。もう会えないんだって、わかって。お父さんには連絡、いってるのかは、わかんないけど。多分…まだな気がして。」
「まだ?どして?」
「…花が咲いてないから。」
「あ、へぇ! 花! なんの?」

 ダボは眉毛と一緒に目を大きく見開いて、真香の顔を見た。

「お父さんの。…あの花は全部お母さんの、みたいな気がする。お母さんの、花。」

 薄く笑みを浮かべながらじっとこちらを見つめてくるダボの顔を、真香は直視し続けることができなかった。先ほどまで怒りに任せて睨みつけていたのに、話しながらどんどん視線は下へと落ちていった。
 いつの間にかダボの足元でアジョナがドーナツみたいに身体を丸めていた。ゆっくりと上下するアジョナの背中の動きに合わせて、真香も少しずつ呼吸を整えていった。

「はぁ…すごいな。みんな死んだことまでは自分で気づくけど、花のことまで感じ取った魂は初めて会ったよ。」

 真香の背丈に合わせるように、ダボは腰を曲げて顔を覗き込むようにしながら近づいてきた。薄緑のレンズ越しに見える彼の瞳をじっと見つめると、真香はその場で足の力が抜けてしまいそうだった。

「君の言う通り、これは君の母親の花だよ。」

 真香が手に握っている花を指さして、ダボは微笑みながら言った。

「ここは何ていうか、君らが言うところの天国ってとこに行く、その前の世界なんだよ。あそこは次に進む準備ができた魂じゃないと、門を通らせてもらえないからね。」

 ダボの言うことを理解しようと必死に追いかけながらも、真香は自分が死んだという事実がさらりと流されていったことを飲み込めずにいた。
 まだほんの少しでも自分の中に期待があったことが悔しくもあり、またそんな自分の愚かさや、それについて感情を整理する時間を与えずに話を進めるダボに対しての新しい種類の怒りもふつふつと沸き上がってきていた。

「準備ってゆうのは、ここへ来た魂自体のはもちろんなんだけど、それを引き留めている他の魂たちの準備も含まれている。まだ実体を保っている魂たちのこと、現世の人間たち…って言えば、君らにはわかりやすいかな? それらの魂の準備ができていないまま、この世界に来た魂が門を通ろうとしてしまうと、最悪の場合、現世の魂も一緒に引き連れてきてしまうこともあるんだ。僕ら管理人だけだとなかなか全部は見切れないから、たまにそういうことも起きてしまうけど。」

 なるべく冷静でいられるように、真香はまたアジョナを見つめた。視線に気付いたのか、彼女は一度だけこちらをちらっと見たあと、大きなあくびをしてから顔を腕の中に埋めた。

「成仏させるための場所ってこと?」
「かなぁ。成仏、仏教の捉え方だよね?魂が現世に舞い戻らずに別の概念へと昇華していく。考え方としては近いと思うよ。僕は君らのいた世界で実体を持っていたときのことは覚えていないから、詳しくは知らないけど。」

 アジョナが左耳をくりっと動かすと三分の一ほど目を開いてから、再び腕の中に顔をうずめて寝息を立て始めた。

「花はね、現世の魂たちの想念が生み出しているんだ。君を思い留まらせている、実体を保った魂たちの想いそのものなんだよ。帰ったらもう一度庭をよく見てごらん。母親の花だけじゃない、小さな花も咲いているから。でも君への想いが強いのは、やっぱり母親なんだね。だからあんなにたくさん咲くんだ。他の花が見えなくなるくらいに。」

 真香は改めて庭の風景を思い返していた。紫の花が咲き乱れるその間に、確かにいくつか別の花も咲いていたように思う。
 しかし毎日眺めていたはずのそれが朧げにしか思い出せないほど、この紫の花は辺り一面を覆っていたし、真香の目にもそれしか映っていなかった。

「花が少なくならないうちは、私は一人でずっとここにいなきゃいけないってこと?」
「いや、種類とその数によるね。もう大丈夫ってところまでは、ここにいることになるよ。」
「種類と数?」

 ダボは開いていたアルバムを閉じると、丁寧に本棚へと戻した。舞い上がる無数の埃が、窓から差し込む陽の光と影の境界をはっきりと映し出した。

「花言葉って知ってる?それぞれの花には意味があるんだ。現世の魂たちが実体を失くした魂のことを想うとき、個々の庭には花が咲く。その気持ちに沿った花がね。」
「お母さんの花は、どんな意味があるの?」

 ダボはもう一度真香の手に握られた花に目をやると、すうっと長く息を吐いてから少し眉毛を下げ気味に、わずかに微笑みながら答えた。

「紫のスカビオサ。『私はすべてを失った』」

(4へ続く)

食費になります。うれぴい。