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【小説】想い溢れる、そのときに(4)



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あらすじと第一話



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4


 部屋の中は、すでに薄暗くなり始めていた。キッチンの横長の凹凸ガラスが、部屋の中を頼りなく照らすように夕陽の橙色を乱反射させていた。
 明かりを付けることもせず、真香はベッドに横たわったままだった。ダボと話した後、どうやって家に戻ってきたのかも覚えていない。ただ、この世界が自分の生きてきた現実の世界ではないとわかっただけで、風の匂いも木々の声も小鳥たちの羽ばたく姿でさえ、全て虚像のように感じられた。
 自分がもう死んでいる?じゃあ、今の私は誰なの?死後の世界って本当にあったんだ。でもそれを証明できる?だって死んでいるのに、こんなにも心は動いていて、触れるもの全てにその実感を認められている。そもそも、自分が死んでいるということを自覚する術などあるの?

 生きている内に死を受け入れることと、死後に死を受け入れることは全くの別ものだ。結末を知って覚悟を決めるのならばまだ心の準備はできるけれど、現時点で結末に辿り着いてしまっていて、それを無条件に受け入れて納得しなければいけない状態を、一体どうやって乗り越えればいいのか、真香にはまるで見当がつかなかった。
 朧げながら思い出しつつある今までの日常に、そこで出会った沢山の人達にもう二度と会えないと思うと、そのまま頭に手を入れて脳をかき混ぜたくなるような、どこにもぶつけようのない憤りにも似た感情が押し寄せてくる。そこには今朝感じた淋しさの欠片も含まれていて、また誰かの傍にいたい気持ちで溺れそうになる。
 真香は飛び起きるようにしてベッドを下りて、庭まで走り出した。



 夕焼けの空は、東の空からやってくる夜の闇に押されていた。ちょうど頭上では青と黒が混ざり合い始めていて、すでにいくつかの星が瞬く支度を始めていた。星座に詳しいわけではないけれど、その星々の配置や大きさに何となく違和感を覚えて、十数年見上げてきたいつもの夕焼けの空とは明らかに違っているということに、真香は再び自分の死を自覚せざるを得なかった。

 風の止んだ庭では、スカビオサが夕陽に照らされて静かに佇んでいた。無数に広がるその光景を目にして、真香は少しずつ淋しさが和らいでいくのを感じた。

『私はすべてを失った』

 ダボはああ言っていたけれど、真香には目の前の花から哀しみのようなものを感じることはできなかった。もっと何か、その感情以前のもの、そこにたどり着く前に排除しなければならない大きく得体の知れないものがそこにあるように思えた。

 その得体の知れないものが何かを感じようとして、真香はしばらく庭の中を歩いた。
 ダボの言う通り、スカビオサに埋もれるように、所々で別の花が咲いていた。花に詳しいわけではなかったので、どれが何の花で、どんな意味を持つのかはわからなかった。しかし、何となく誰の想いから咲いた花なのかは感じ取ることができた。
 ふりふりとした花びらのオレンジの花は、小学生の頃から仲良しの美優ちゃんのもので、真香の死を悲嘆しているのがひしひしと伝わってきた。哀しんでもらえていることに少し喜びを感じながら、こんなことで喜ぶなんて不謹慎だなと思いつつ、そもそも死んだ本人は私なんだから不謹慎でもないのかと、真香は自虐もできる自分にふふっと笑った。
 徐々にではあっても、ちゃんと自分の死を受け入れられているように思えて少し安堵したものの、やはりスカビオサから母の哀しみを感じ取れないことが真香の不安を煽った。
 それでも確実にこの花は母の想いの形で、ダボの言うことが正しければ、真香の死を『すべてを失った』と感じているはずだった。それなのに、この空虚な感じは何なのだろう。

 あっ、と小さく声を出すと、真香はその場でしゃがみ込んで再びスカビオサを一輪摘んだ。
 もしかすると母は、まだ娘の死を受け入れられていないのではないだろうか。失ったことは確かだけれど、まだ夢の中にいるような、現実を現実と認識できないでいる状態なのではないだろうか。
 ちょうど今、死を受け入れられていない真香自身と同じように。哀しみや何やらの感情を生み出す以前に、そもそも目の前の死を否定し続けてしまっているのでは?
 そう思うと、真香は自分と母の間に強固な繋がりを見つけたように感じて少し嬉しくなった。お互いに同じ感情の置き場を共有している。少なくとも、ダボと話をしていた時のような一人で戦い続けている感覚は薄らいでいった。

 しかし同時に、このままではいけないことにも気付き始めていた。私達はお互いに、「私の死」を受け入れていかなければならない。真香はこの世界から抜け出すために、そして母は生きるために、必要なことだった。

 庭の先の草原に落ちていく太陽を見届けた後、真香はゆっくりとダボの家まで歩き始めた。


 扉をノックすると、ダボは驚きもせず真香を家の中に迎え入れてくれた。

「夜になったから、ホットミルクにしようか」

 小さな琺瑯の片手鍋に牛乳を注いで、ダボは弱く火をつけて温め始めた。

「現実の、生きている人達の気持ちは花でしかわからないものなの?」

 いつもの椅子に座りながら、真香はダボに尋ねた。

「花以外にも、あるにはあるね。」

 ダボは鍋の前から動かず背を向けたまま返事をした。しばらく沈黙が続いたあと、ずんぐりとしたマグカップに湯気の立つミルクを注いで、輝きの鈍った金のトレーに乗せてテーブルまで運んできた。

「それを知って、どうしたい?」

 向かいに座るダボは無数のキャンドルに照らされて、昼に会うよりもより神秘的な存在に見えた。ここが天国に近しい場所だと聞かされたからかもしれなかったが、改めて彼の纏う空気は人外のそれに思えた。

「…まだ自分が死んだこと、受け入れられたわけじゃないけど。でも少しでも、前に進みたい。できれば、お母さんも…そうしてほしいから。」

 自分の死によって、母が今どのような状態なのかを真香は知りたかった。花から感じ取れる限り、母も自分と一緒で、空虚さを持て余しながら生きているように思えたし、それは途轍もなく苦しい生き方のはずだ。

「そう。真香は本当に、いい子だね。」

 ダボは隣の部屋に行くと、アジョナを片手で抱えて戻ってきた。寝ていたところを起こされたのか、少しむすっとしているように見えるアジョナは、それでも大人しくダボに抱きかかえられたままで身体をだらりと伸ばしていた。

「彼女の自己紹介は聞き取れなかったんだよね?確か。アジョナはね、世界の猫の出入り口なんだ。猫は目にした生き物の感情は全て吸い取る生き物だから、彼女に触れれば実体のある魂のことは大抵わかる。猫はどこにでもいるからね。」

 海にはいないかな、と微笑みながらダボはアジョナを真香の足元に下ろした。アジョナは大人しくその場に座ると、真香をじっと見つめた。

「先に伝えておくと、ここから君のお母さんのことは知れても、例えば声をかけたり、そういった手助けとかはできないよ。だから、君がただ苦しくなるだけかもしれないけれど。」
「いい。大丈夫。お母さんの気持ちを知って私も一緒に苦しむなら、何もしないよりその方がずっといい。」
「…抱いてごらん」

 真香はアジョナの両脇にゆっくりと手を入れると、そのずっしりとした身体をゆっくりと持ち上げた。

(5へ続く)

食費になります。うれぴい。