【エッセイ】惹かれた曲 ちゃんみな「ダリア」について

ここ最近のヘビーローテーションは、ちゃんみな「ダリア」。

彼女の存在は名前以外ほとんど知らなかったのだけど、「美人」という曲のMVを初めてYouTubeで見た時、その多彩な声の使い分けに驚きました。
「若くてラップをする人」という漠然としたイメージだけだったちゃんみなさんが、実はこんなに歌手としての魅力に溢れ、技術的にも高いものを持っているとは知らなかったのです。


美しさの基準って?

「あなたはとても美しい」と、ここ数年内面の美しさ、本来の美しさに焦点を当てた楽曲が増えつつありますが、少し空虚に響くものが多いのも確かです。
この辺りは、英語と日本語の違いも関係するのかもしれません。
例えばアギレラが「you're beautiful」と拳を掲げて歌いあげる様は、至極自然に見えますが、これが日本語に直訳して考えてみるとなると急に恥ずかしく思えてしまう。
見えてしまうというより、言われた側が恥ずかしくなってしまう。

もっというと、言われた側というのはつまり「私」なのですが。

美しいという日本語自体に恥ずかしさを感じるのは、その言葉の相応しい人間とはどのような人物なのかが、私の中にあるからなのかもしれません。
そしてそれが、私自身には当てはまらないから恥ずかしくなってしまうのでしょう。
だって外見の美しさは勿論のこと、歌われている「内面の」「本来の」美しさすら、私には無いように思えるのですから。

外見も内面も美しくない自分にとって、あなたは美しいと肯定してくれる楽曲は、余程の力がない限り奥底に滲みては来ないのです。

そんな中、この「美人」は非常に生々しく私に響いてきました。
ちゃんみなさんご自身の経験を歌われているからこそなのでしょうが、全体的に漂う怒りの感情がダイレクトに伝わってきます。
それは外見を批判してきた人達に対するものだけではなく、外見を賞賛してきた人達に対するものでもあるからなのでしょう。

この辺りが、本来の美肯定派楽曲の中でも、この楽曲が特異なものになっている所以です。
その当時の怒りと、現在の怒りが同居している。
そこでちゃんみなさんが歌っているのは、私が恥ずかしさを覚えてしまう「美しさ」というものが、果たして本当に自分の中で導き出された正解なのかという問い掛けなのです。

つまり、本来美しさの基準というものは人それぞれであるはずなのに、誰かが決めた、何となく共通の認識として刷り込まれている謎の基準に照らし合わせてはいないか?という問題提起。
賞賛してきた人達へ向けても歌っている彼女のこの姿勢に、私は自分の中の何かにヒビが入ったように思えたのです。


「心をください 返してください」

そしてこのMVの最後、エンドロールと共に流れる楽曲こそが「ダリア」なのです。
私は初めて見た時、この楽曲も「美人」の一部なのかと思っていたので、曲単体で聴いた時に「あれ?後半の展開が違う…?あれは??」となってしまったのですが、EP「美人」の四曲目に収録されていました。

ダリアは美人よりも、更に生々しい響きを以って私の中に深く深く沁み込んできました。
ちゃんみなさんの真意とは違うかもしれませんが、こちらはより心の傷に向き合っているように感じます。
その当時傷付いたことを、時間が経ってから自覚的になることって、誰しもあることだと思うのです。
傷付けられた瞬間というのは、それが苦しいことであればある程、或いはそれが当たり前の日常にすり替わってしまえばしまう程、自覚を持ち辛くなっていきます。
その傷付いた経験を、更に深く掘り下げて歌い上げられているように聴こえるのです。

そしてそれは歌詞だけではなく、彼女の声の使い方にも色濃く表れています。心の叫びと言わんばかりの絶叫が、しかし歌声としっかり判別できるギリギリの部分で踏み留まってコントロールしているのです。
ボーカリストとしての表現力と、楽曲制作者としての表現力とが見事に混ざり合っていて、ここ数年でもかなりお気に入りの楽曲となりました。

その後彼女の過去のアルバムや最新作「ハレンチ」もよく聴いているのですが、やはりこの「ダリア」が、今のところ私の中でのちゃんみなさん楽曲第一位なのです。
青春時代を支えてくれた方々が、幸い今でも現役で活動されているので(椎名林檎さん、宇多田ヒカルさん、aikoさん等々)、最新の歌手や楽曲にはそれ程触れていないのですが、次世代の素晴らしい表現者の作品にも積極的に触れていくべきだなと、改めて感じられた楽曲でした。

ちゃんみなさん、ライブも気になる。。

食費になります。うれぴい。