あの坂を下り、三つめの交差点を左に折れた所に綾乃の家はあった。駅からは二十分かかるがコンビニはある。ファミレスに弁当屋にファストフード、イタリアンにはテイクアウトもある。スーパーは無いので自炊しようと思わなければ割といい物件だ。 涼介が綾乃の家に住み始めた時、真っ先にスーパーの位置を聞いたのを思い出したのだ。涼介は豪快な趣味の料理ではなく、母親が実家で作っていたような料理をする。 毎日はパーティではなく生活の延長であるのだと涼介と居ると綾乃は思い知らされる。 ただい
渚は走った。海沿いの歩道は潮の香りがして半袖の腕を舐めるように風が吹く。今日、決まった。夏休みの展覧会に渚の絵が出品される。この嬉しさを隠せなかった。一番に伝えたい!病院に早く着きたかった。 「なぎさくーん、待ってー」 後ろから由奈の声が聞こえる。今日は一緒に帰らないって言ったはずだ。のんびりした声が息を切らしてついてくる。渚は舌打ちすると立ち止まり、由奈が追いつくのを待った。 「なんだよ、待つなって言ったろ」 「だってえ」 由奈は胸を上下させ、立っていられないのか渚の
2〜14万字か…… 読み応えありそう
美雨は可愛い。眠っている時のふわふわとした髪の毛もそうだし、舌足らずで正悟を呼ぶのも可愛い。少し重くなってきたが、抱えられないというほどではない。むっちりとした腕、すべすべの足、幼児特有の頬の膨らみ。 ただ、好きなのかと問われれば首を傾げざるを得ない。正悟は大きな声が嫌いで、美雨は泣くしかできないのだ。 この一点だけで、全てが台無しになるほど美雨の泣き声は大きい。しかも幼児とはいえ女なのだ。少し気にいらないと泣き出すなんて訳がわからない。癇癪を起こす美雨は最悪だ。
スコアブックという本を初めて見た。若葉は圭祐の差し出したそれをパラパラとめくってみる。音符や数字、アルファベットなどが所狭しと書いてあり若葉はため息をついた。 「何が書いてあるのか、全然わかんない」 「初めはそうだよ、みんな」 俺もそうだった、と圭祐は言った。ただの譜面だと呟いて若葉からスコアブックを受け取る。圭祐はYouTubeにギターを弾く動画をこっそり上げている。 圭祐の家族以外でそれを知っているのは若葉だけで、若葉も動画を見ている事を圭祐以外には言っていない。し
コメントをたまにいただけるのですが返信の仕方がわからずハートを押すだけで精一杯です。でもめっちゃよろこんでます!ありがとうございます
何も作る気になれなくて、会社の帰りにモスバーガーを買って帰った。今日橘さんは来ない。一人の夕食だった。 優美は思った。橘さんは今、家族団らんというやつをしているのだろうなと。子供の年齢は教えて貰えない。ただ、男の子と女の子が一人づつ。手のかかる時期は終わって受験などを気にする辺りのはずだ。 橘さんと付き合うようになって、優美は不倫する女の話を敏感に感じ取るようになっていた。テレビドラマ、映画、ゴシップニュースなどで不倫の文字を見る度に私とは違うと言い聞かせていた。
ゲームにハマってしまったので今月はお休みします
「ああ、ブレてちゃんと撮れない」 海斗が笑いながらスマホをゆらゆらさせているので比呂は画面を覗き込んだ。 「ムービーで撮ればいいよ」 そのままムービーのボタンを押して、海斗の画面に映り込む。ピースをして、すぐにやめた。ピースは古いとおもったのだった。 「比呂さん、笑って」 海斗は笑ったまま比呂を映す。比呂ははにかんだ。そして言った。 「今日のお前、忘れないよ」 「なんすか、それ」 海斗はずっと笑ったままだ。比呂は海斗の頭を撫でた。若かったら抱きしめていただろうと思う。
今年も兄の息子、甥っ子がやってくる。年末にやって来て正月に帰るのである。綾太は独身で実家に住んでいる。だから必然的に甥っ子にも会うのである。 子供が嫌いというわけではなかった。ただ、結婚も子育ても未知のもので綾太は兄たちが来た時にしかそれを近くで見るすべがないのである。職場の人間の子供に会ったことは無いし、友達は少なくみな綾太と同じ独身なのだった。 「しょぼ」 去年の事だった。甥は綾太があげたポチ袋の中を見てつぶやいた。綾太に聞こえたのだから呟いたというのが適切なのかは
今度上げる短編小説の評価
KANちゃん、山田太一さんの訃報に気落ちしている時だった。チバユウスケが亡くなったとThe birthdayの公式ポストから知った。 すでに二回頭を殴られたような衝撃の後だったので私は心底くたびれてしまった。作品は残る。私はランダムに音楽を聴く。 はじめは亡くなった事を悼むように。段々実感がわいてくると、憧れの人はみんな先にいってしまうな等と考える。 今でこそ憧れの人に年下の人が混じるようになったが、青春時代を思えばみな憧れの人は年上である。年上だからこその深い考察や
みかんの皮を剥いて果実を取り出すと白い筋が気になる。祐未は筋を一本づつ取りながら口の中にみかんを一房放り込む。じゅわっと果汁が広がって思わず頬が緩む。こうなるとこたつが欲しいところだが、インテリアを考え毎年我慢している。温もりと見た目の板挟み。悪い悩みではないと祐未は思う。 寛二は風呂に入っている。スマホをジップロックに入れて持ち込んだはずなので小一時間は出てこないであろう。祐未は残りのみかんをさっさと食べるとため息をついた。寛二を待ってお喋りをしても良いのだが今日はな
短編小説 夏の終わりが5回シェアされたそうで、本当にありがたいです マガジンに入れてくださった方もありがとうございます
大福をひとつ、鞄の中に持っていた。美津は走った。早く丘に辿り着きたくて。そこには重雄がいると信じていた。 丘には茂みがあり、それを抜けると拓けて海が見える場所がある。まだ重雄は居なかった。 キョロキョロと辺りを見回してから、木の影に腰掛ける。美津は大きくため息をつく。 戦時中の今でも、清貧に生きている人たちがいることを知っている。美津もそうだった、ついさっきまでは。鞄の中の大福は盗んできたものなのだ。海を見下ろして闇市を走り抜けた事を思い出す。怖かった。今になって足が
呼べば来る女は何人か居た。孤独を癒してくれる女は居なかった。電話帳に並ぶ名前を眺めながら泰二は指を動かした。 「今暇?」 声に出すと情けなくなるが自分の声が寂しく聞こえた。すぐに返信を寄越す女が良かったのに一度も返信をよこした事がないユズハという女を選んでいた。 「早く読め」 ユズハは合コンに数合わせでやって来た、地味な女だった。眼鏡をかけていた。声は低く髪の毛はストレートで肩ほど、化粧っ気のない静かな女だった。他の事は知らない。合コンで皆の連絡先を聞き、別れてからはそ