短編小説 棘




 何も作る気になれなくて、会社の帰りにモスバーガーを買って帰った。今日橘さんは来ない。一人の夕食だった。
 優美は思った。橘さんは今、家族団らんというやつをしているのだろうなと。子供の年齢は教えて貰えない。ただ、男の子と女の子が一人づつ。手のかかる時期は終わって受験などを気にする辺りのはずだ。

 橘さんと付き合うようになって、優美は不倫する女の話を敏感に感じ取るようになっていた。テレビドラマ、映画、ゴシップニュースなどで不倫の文字を見る度に私とは違うと言い聞かせていた。
 橘さんは奥さんと仲が悪くないようだった。奥さんの話は聞いた事がない。優美から訊ねた事も無い。優美にとって橘さんとの時間は、新しい自分に出会えるもので他は邪魔でしかない。
 例えば優美は身長154センチである。だが橘さんと居る時には自分がその背丈なのは彼の隣にぴったり立つためだったのだと思える。
 「だってさぁ」などと優美が言えばその言葉遣いの乱雑さに橘さんは顔をしかめる。すると優美は自分が初めて下品な振る舞いをしていたのだと気付ける。ひとつステップアップした気になれるのだ。

 部屋着でハンバーガーにかじりつきながら、ぼんやりとYouTubeでVTuberがコメントをいじるのを聞いている。綺麗な声だと素直に思う。けどVTuberの素顔を見た事は無い。隣に並んだ事もない。キスをした事も。
 橘さんの顔が不意に浮かぶ。彼は今家族と過ごしている。私の存在しないサークルの中で、きっと笑顔で。
 少し冷めたバーガーは塩味が浮き立って優美は飲み物が欲しくなる。キッチンまで行くと顔を寄せてがぶがぶと蛇口から直接水を飲んだ。何で私の所には橘さんがいないんだろうと思うと余計に喉が渇いた。
 
 トレーナーが濡れてしまったのでその場で脱いだ。上半身裸のままで洗濯機まで行ってトレーナーを投げ入れた。足の力が抜けた。その場に座り込む。涙など浮かんでこないかと思ったがその厚かましさに羞恥し、顔が赤くなっただけだった。
 結局こうしてずるずると別れを引き伸ばしているだけなのだと気付き、引き伸ばしているのは橘さんの方のような気がしてため息が出た。私が向き合う事を橘さんは望んでいない。
 別れたら一人ぼっちになってしまう気がする。でも。
 でも、別れたら私に広がる世界は。

 優美はYouTubeを閉じると半ば衝動的に橘の連絡先を削除した。削除してぼんやりする。ぼんやりするのに飽きると涙が出てきた。しかしブロックする事はできなかったのだ。
 涙はとめどない。だが優美は自分を許さなかった。

#小説
#短編小説
#オリジナル小説
#ショートストーリー
#超短編小説

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?