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前書き
 みなさま、お久しぶりです。おはこんにばんは。伊智小寿々です。
 最近、音声配信サービスで発信活動(雑談というか、徒然なるままに喋ってるだけ)をするようになってnoteはご無沙汰しておりました。しかし今回!なんと!小説をupします_(:3」∠)_まぁこれは去年の今頃、pixivのコンテストに応募して見事落選したものを加筆修正したものです(笑) 16,000字以上、pixivによると読了まで約30分かかるそうです。みなさまに是非読んでいただきたい、とは実は思ってません(笑) 初めてこんな長い小説書いてそれなりに時間も労力もかけたので、こっちにもupするかーくらいの気持ちです。まぁでも、読んでいただけたら嬉しいです。つまんなくても苦情は受け付けません。一つの章を大体10分ずつくらいで読めるようにまとめました。よろしくお願いします(=゚ω゚)ノ


【あらすじ】

自堕落な生活を送る無気力な男は七月のある日、二人の少女に出会う。中止になった夏祭りに行きたがる少女たちのため、男は廃校になった中学校で祭りのまねごとをしようと提案する。どことなく不思議な二人の少女。少女の一人は十五年前その中学校に通っていた女子生徒の亡霊だった。理想の姉妹像に憧れながら、死んだ姉に対して複雑な思いを抱えていた彼女は、幽霊が出ると噂だった図書準備室に十四歳の自分を亡霊として残してしまっていた。まねごとの夏祭りの中で、十五年前に置き忘れられた思いが邂逅する。


 網戸と窓ガラスの間に黒い虫が一匹、入り込んでいる。飛びながらしきりに網戸に体をぶつけては跳ね返っている。前にも後ろにも進めず、当の本人には何故そのような状況に陥っているのかも分からない。俺は狭い空間の中を蛇行するその黒い点をしばらく見つめた。それから、網戸を開けるために窓を開ける。窓を開けると、網戸にぶつかり続けていたその虫は方向を変えて、部屋の中へ飛び立った。

 薄ぼんやりとした意識の中、耳鳴りを断ち切るチャイムの音が脳内に響く。私は目を開けた。どれくらい眠っていたのだろう。南の壁一面の窓から見える空には薄雲がかかっているが、雲の向こうの陽光は高い位置にあり、明るい。窓を開けるとムワリと、少し湿った空気が入ってきた。白いレースのカーテンが風で膨らむ。顔に当たる風には強い夏草の香りがのっている。電車の音、車の音、子どもの声、街の騒音が聴こえ出す。私は外を眺めたまま、しばし立ち尽くした。深呼吸。いつぐらいぶりだろうか、頭がはっきりと覚醒している。光も音も鮮明で、全ての物の輪郭をくっきりと感じる。
「お姉ちゃん、夏祭りに行こう!」
隣で窓枠から乗り出さんばかりの彼女が私に向かって叫んだ。眩しい笑顔に気圧されて反応できずにいると、彼女は駆け寄ってきて私の手を取った。同時に私たちは走り出す。扉を勢いよく開け放ち、全速力で駆けていく。私は少し躓きながらも、彼女に手を引かれてアスファルトの坂を駆け下りる。

 長い坂を下りきると道の脇に古い商店があった。
「ねぇ、お店があるよ。聞いてみよう!」
「聞くって…何を?」
「お祭りの日にちだよ!」
私は手を放して商店の古いサッシに手をかけた。建付けが悪い横開きの扉がギギギと音を立てて開く。中は暗くてやや埃っぽい。石鹸や蚊取り線香などの日用品、菓子パンや缶詰が並べられている。
「ごめんください」
声が掠れて自分でもあまり聞き取れない。
「ごめんくださーい」
彼女が後ろから大声で叫ぶので驚いて体を縮める。店の奥から腰の曲がった老女が出てきた。マスクを着け、白髪の多い長髪を後ろで一つに束ねている。
「あなたたち、なあに」
老女は訝しげにこちらを見る。
「あのっ、夏祭りって何日後ですか?」
「はぁ…」
老女は眉間の皺を深めて私たちをジロジロ見ている。
「そんなものやってないわよ」
私はつっけんどんな言い方にたじろいだ。しかし彼女は食い下がる。
「そこの神社で毎年やる、花火が上がる夏祭り。今年は何日か知りませんか」
「やってないわよこのご時勢に。だいたいあなたたちマスクもしないで…」
ボソボソと呟きながら眉間をギュッと寄せて睨みつけてくる。
「マスク?」
私たちは顔を見合わせる。
「帰ってちょうだいな。忙しいの」
シッシッと手を振ってそう言うと再び奥へ引っ込んでしまった。

 ミィィンミンミンミンミン…。劈(つんざ)くような音量から次第に引き摺るように小さくなり、再び劈くように響く。自室を包囲する蝉の鳴き声はうだるような暑さをより重苦しいものに感じさせる。2階の自室には蒸し暑い空気が充満し、開け放った窓からは少しも風が入ってこず、日焼けして黄ばんだ丈の短いカーテンすら、ちっとも揺れない。朝、寝苦しさで起きてから、スマホのゲームをしたりもう読み飽きた漫画を眺めたりして、いつも通りダラダラ過ごしていた。七月に入って気温が急激に上がり、いつも以上にやる気が起きない。仕事もしていない。一緒に遊びに行くような友人もいない。趣味すらない。テレビや漫画を眺めたり、無料のスマホゲームをしたりして暇を潰しても、いつもどこか持て余している。煙草が吸いたくなって仕方なく起き上がる。西から強い風が吹き、ベランダに干された洗濯物が揺れた。その向こうに見える空は灰色にくすんでいる。階下に降りると、母さんが居間でテレビを見ていた。
「ちょっと出てくるわ」
「はいよ」
俺は家を出て歩き出す。ジリジリジジジジ、ミィィィィン、蝉の鳴き声がうるさい。

 店を追い出された私たちは道端で話し合った。
「どうしよう。お祭り、やってないって。てゆうか感じ悪すぎ」
彼女は憤慨してむくれている。私はこれからどうしようか考えることに集中しようとした。
「ここに居てもどうにもならないけど」
 ふと、どこからか煙草の臭いがした。周囲を見回すと店の向かいの駐車場に止めてある大きな黒いワゴンの陰から、左手に煙草を持った男が私たちを見ていた。肩まで伸びたぼさぼさの髪に無精ひげ、痩せた手や顔の肌が青白い。年齢は判然としないが生気のない顔はのっぺりとして目立った皺はない。黒いジャージを着ているので男が動くと影の一部が動いたように見えた。
「君たち、懐かしい恰好してるね」
私は話しかけられて身構えた。彼女がすかさず質問する。
「あの、夏祭り、やらないんですか?」
「夏祭り?うーんと、今はどこも閑散としちゃってるからなぁ。そこの神社の夏祭りも今年は中止らしいね」
男は神社の方を見やってそう言うと、煙草を砂利に落として火を消した。私たちは落胆した。
「君たち近所?」
男は私たちを交互に見る。
「近所…だけど。最近のことはあまり分からない、くて…」
私は怪しまれない答えを探りながら返答したが、声は小さくなり最後には俯くしかなかった。男は「うーん」と唸ると後頭部を掻いた。綿毛のように髪の毛全体がふわふわと揺れる。
「夏祭りねぇ。まぁ、とりあえず家に来る?ここらへんカフェとかないし。」
私たちは顔を見合わせる。その動作を男は勘違いしたらしい。
「あ、大丈夫大丈夫。母さんも居るよ。夏祭りについて母さんに聞いてみたら何か手があるかもしれない」

 男の家はそこから歩いて数十歩の場所にあった。こじんまりした木造2階建てでコンクリートブロックの外壁から玄関ポーチまでの距離は1メートルもなかった。玄関前は薄暗く、空の植木鉢やシャベルなどが隅の方に置かれていた。
「母さんに禁煙するって約束したんだけどさ、たまに吸いたくなってあそこでこっそり吸ってるってわけ」
男は玄関前で、小声で私たちにそう告げると、扉を開けたまま家の中に入っていった。
「母さん、お客さん」
まもなく薄暗い廊下を通って小柄な女性が出てきた。痩せていて、年齢は六十代くらいだろうか、男に似た面長な輪郭、細いつり目。顔は白く唇だけがやけに赤い。
「あら、まぁ、懐かしい制服で。どうなさったの」
「この子ら夏祭りに行きたいんだってさ。でも今年はやってないから途方に暮れてたんだ」
「ははぁ、まぁ、とりあえずお上がんなさい。」
「おじゃましまーす」
私たちは靴を脱いで男と母親に続いて居間に入った。
 居間には木製のダイニングテーブルと、それを囲むようにダイニングチェアが3脚置いてあった。私たちは母親に勧められてそこに並んで座る。男はどこからか折り畳み式の小さな簡易チェアを一つ持って来てそれに座った。コップに注がれた冷たい麦茶が私たちの前に置かれる。
「この子ら、神社で毎年やってた夏祭りに行きたいんだってさ」
男が再度、母親に事情を説明する。
「そうなんです。そこの神社の、花火が上がって屋台も沢山ある夏祭り」
「そうねぇ。今年もやる予定で、そこの廃校になった中学校で準備していたみたいなんだけどね。なんせこのご時世だからってゆうので直前に中止になって。うちの人もあそこの祭りが大好きでね、毎年、屋台を出してたんだよ。」
「それ、俺が中学生の頃の話だろ。何年経ってると思ってるんだ」
「十五年だね」
母親が答えると、男は目を伏せて不機嫌そうに黙り込んだ。
「この子の父親は亡くなったんだけど」
母親は息子の顔を一瞥した後、居間の奥の和室に目を向ける。半分開け放たれた襖の向こうに見える薄暗い畳の部屋、その隅に仏壇が置かれていた。
「粋な人だったもんでね、祭りも花火も大好きだったんだよ」
そう言うと母親はニヤリと笑った。
「そうだ、そこの押し入れに父さんが屋台で使ってた道具がまだ残ってると思うよ。ちょいと出しとくれ」
男は面倒そうな顔をしたが母親に促され、低い椅子からのっそりと立ち上がって和室に入って行く。後に続いた母親の「これじゃないか。違うな。その奥の洋服ダンスの横の、それそれ、出しとくれ」と指示する声と押し入れの中を漁る音がする。
「あぁ、あったよ、これだ」
段ボールの前に座った母親が私たちに手招きをする。男が中身を一つずつ出している。ホットプレート式のたこ焼き機、ひょっとこのお面、狐のお面、金魚すくいのポイ、竹串、たこ焼きとかき氷用の使い捨て容器がそれぞれ数枚…。
「母さん、かき氷機もあるよ」
いつの間にか男の顔も綻んでいる。頬が僅かに上気して生気のなかった顔に血色が兆す。
「あぁ、あぁ、懐かしいねぇ」
母親はひょっとこのお面を手に持ち、目を細めながら眺めている。目尻の細かい皺が深くなる。
「このちょっととぼけたお面をあの人がかぶると、どっちが本当の顔だか分かんなくなったもんだよ。あの人はタヌキ顔だったからね。私はこっちのお面をかぶって手伝ったもんだ」
そう言って母親は自分の顔に、狐のお面を斜めにかけた。そうすると母親の顔が二つあるように見える。
「祭り、やろうか」
ぼそりと呟かれたはずの声は私たちの耳に確かに聞こえたが、その意味を理解しきれずに3人ともが聞き返した。
「え?」
私たちと母親、3人の声が揃う。
「夏祭り、やろう、俺たちで」
張りのある声だった。
「あそこの廃校になった中学校は、裏門の通用口が施錠されてなくて簡単に入れる。今は警備もされていない。たまにあそこの教室や体育館を自治会に貸してるだろ。だから祭りのまねごとくらい、あそこで出来るはずだ」
男が勢い話す計画を、頭で再生するのが追い付かない私たちはポカンとしていたが、やがて母親が口角を裂けんばかりに吊り上げた。
「よし、やろう!祭りだ、夏祭りだ!」
それを聞いて隣の彼女が私の手をパッと取る。
「やったぁ、夏祭りできるよ!お姉ちゃん」
その目はキラキラ輝いている。つられて私も笑う。

 「母さん、でかい氷は手に入るかな?」
「そんなもん、そこのスーパーで売ってるよ」
「あ、そうなんだ。じゃあ俺、たこ焼きの材料と一緒に氷も買ってから学校に向かうわ」
「そうだ。じゃあ中井さんに車出してもらおう」
俺は顔をしかめた。中井さんは近所に住む頭の固いじいさんだ。じいさんと言っても母さんと同い年だけれど。随分前に離婚して以降ずっと一人暮らしで、元奥さんや子どもとも会っていないそうだ。母さんとは気が合うのか家の居間でよく茶を飲んでいる。俺はこのじいさんがあまり好きじゃなかった。会う度に「早く働いて母さん安心させたりや」とせっついてくる。なぜ家に上がって来た他人に説教されなければいけないのか。しかし自分の情けない現状を顧みるとぐぅの音も出ない。だからこそ余計に苦手だ。
「でもさ、事情話したって納得してくれるかな」
母さんはすでに携帯電話を耳に当てていて、横目でこっちを見ながら人差し指を向けてくる。
「大丈夫だよ、あの人は話の分かる人だから。あ、もしもし、中井さんかい。私です」
母さんは喋りながら、掃出し窓を開けて庭先に出て行った。雑草抜きが大変なだけの小さな庭には、母さんが買ってきた安っぽいプランターが置いてある。何を植えたのか、双葉がちょこんと土の上に顔を出していた。薄雲に覆われていた空がいつの間にか晴れている。
 俺は改めて段ボールの中身を確認した。さっき畳の上に出した物の他にもまだ小物が残っている。ゴムの堅くなったヨーヨー、破けた提灯、ぼろぼろのうちわ、父さんの甚平…。
「浴衣はないな」
はしゃいだ様子で何か囁き合っている二人の方を見た。一人は長い黒髪を低い位置で二つ結びにしている。傷みのないストレートヘアだが毛量が多く、毛束が太い。もう一人は落ち着いた色の茶髪を短い三つ編みにしてこちらも二つに結んでいる。地毛にしては明るい色だと思ったが、染めてはいないようだ。日本語は流暢だが、茶髪の子はよく見ると顔立ちは西洋系で、ハーフなのか、肌の色も白かった。しかし二人とも、髪型は半世代ほど昔の学生といった感じだ。
「お二人さん、悪い。浴衣は用意できないんだがその代わり…」


 2階のベランダは上から見ると正方形でその半分は物干し竿と洗濯物に占領されている。俺は何も置かれていないもう半分の、丁度真ん中に椅子を置いた。白いビニール製のケープを取り出してカット用のはさみの状態をチェックする。
「問題なさそうだな」
 茶髪の子は、自然なくせ毛を活かすために思い切って肩上までカットした。
「わぁ、すごい!頭がすっごく軽くなったよ」
カットが終わって鏡を渡すと大げさなくらい喜んでいる。
「昔、美容師やってたんだ。腕はそんなに良くなかったけどね」
十年前、美容師の専門学校を出て小さなヘアサロンに就職した。しかしその勤め先が間もなく潰れ、以来ずっと、季節ごとに短期バイトをするだけだ。失職後どうしてもやる気が起こらず、ろくに就職活動もせずダラダラ過ごしている内に気が付けば十年以上経っていた。今では自分の髪が伸びて鬱陶しくなったときにカットするだけだ。
 黒髪の子は、長さをあまり変えず全体的に梳いて軽くする。制服に合うかわいい髪ゴムが見つからず彼女が元々使っていた黒い髪ゴムでポニーテールにした。
「ごめんね。まともな髪ゴムがなかったんだ」
申し訳なく思って黒髪の子の顔を見ると、彼女は鏡で自分の新しい髪型をじっと眺めていた。
「ありがとうございます」
こっちを見て少し頭を下げてから目を逸らしてはにかむように笑った。茶髪の子はコロコロ表情が変わり、その表現もオーバーなくらい大きいが、反してこの子は感情表現がごく控えめだ。こちらの方が照れくさくなって、人差し指で鼻をこする。
「ま、気に入ってもらえてよかったよ」
もう長い間、動くことのなかった心臓の底の部分が、ほんのちょっと持ち上がったような、妙な、でも懐かしい、変な感じがした。

 母さんと二人は中井さんの車に荷物を預けた後、先に学校へ行って場所を準備することになった。俺はたこ焼きの材料とかき氷用のロックアイスを買いに一人でスーパーへ行く。スーパーに中井さんが車で迎えに来て、そこから学校へ向かう予定だ。
スーパーではお菓子売り場の中に縁日コーナーが設けられていた。酢昆布、棒状のカラフルなゼリー、ココアシガレット、渦巻き状の大きなキャンディ…、懐かしい駄菓子が並ぶ。ラムネとりんご飴を一つずつ籠に入れる。かき氷用の大きなロックアイスの売り場横に置いてあったイチゴシロップとメロンシロップも籠に入れる。それにたこ焼き用のかつお節、小麦粉、タコ、キャベツ…。レジに並ぶときには籠が随分重くなっていてプラスチックの取っ手が腕に食い込んだ。しかも、いつもは空いているレジが今日に限って混んでいる。右手、左手と籠を持ち替えながらレジ待ちをする。
「なにやってんだかなぁ」
思えば奇妙なことになったものだ。「祭りをやろう」と言い出したのは自分だ。けれどあの言葉は無意識のうちに口からポロリと零れたという感じで、自分で言ったという気がしなかった。そもそも夏祭りの中止を聞いて落胆している様子に同情したとはいえ、会ったばかりの二人の願いを何とか叶えてやりたいとどうしてそこまで強く思ったのかも分からない。二人が懐かしい母校の制服を着ていたからだろうか。それにしてもこの後、中井さんに会わなければいけないと考えたら気が重くなった。
「でも言い出したのは俺だしなぁ」
溜息を吐こうとしたら欠伸が混ざってフヨォォという変な声が出た。

 やっとのことで会計を済ませてスーパーを出ると強烈な日差しとアスファルトの照り返しの攻撃を受ける。駐車場の方で中井さんの白い軽トラックが大きなエンジン音を立てていた。古いが軽トラックにしては外装が小綺麗だ。日に焼けた中井さんの腕が運転席の窓からにゅっと飛び出してこちらに向かって手を振っている。
「おーい、こっちだ」
その風景を歪ませるほどの陽炎を通り過ぎ、あまりの暑さと荷物の重さによたつきながら、中井さんの元まで歩いて行った。挨拶をして助手席のドアを開ける。エアコンの涼しい風が吹き出してくる。助手席に水の入った金魚鉢が置かれていた。中には赤橙の太った金魚が一匹。
「何ですか、これ」
「夏祭りするんだろ?金魚すくいは流石にできねぇがせめて一匹くらいはな。こりゃちょっと前に工務店の親父に譲ってもらったんだけどよ。みるみる太っちまった」
ここに来るまでよく水がこぼれなかったものだ。俺は金魚鉢を膝の上で抱える代わりに荷物を運転席と助手席の間に置き、車を出してもらった礼を述べる。
「いやぁ、いいね。楽しそうじゃないの」
中井さんは左の口角だけをぎゅっと上げて笑う。日焼けした顔に中井さんの軽トラのような白さの歯が覗く。中井さんの軽トラは滑らかに駐車場を出て学校へ続く通りを走る。
「運転免許は持ってないの?」
「持ってません」俺は小さな声で答える。
「えー、だめだよぉ、男は運転できなきゃ。それじゃ母さんだってこれから先困るだろ」
中井さんの言葉に俺は黙り込む。俺だって免許くらいとりたかった。しかし学生時代は専門学校にお金がかかって自動車学校にまで通う金などなかった。働き始めたら今度は忙しくてとる機会がなく、仕事を辞めたらそんなことに金を使う余裕はなくなった。免許のみならず車だって馬鹿にならない。購入も維持費もだ。今は時代が違うんだ。俺は憮然として車窓から外の景色を眺めた。

 車は順調に道を抜け、坂を上がり、中学校の裏門前まで到着する。
「やぁ、中井さん。悪いねぇ」
木陰から母さんが歩いてきて中井さんに声をかけた。
「二人は4階の端の教室に居るよ。階段のすぐ横の。体育館も他の教室も開いてなくてね。屋上とその教室だけは入れたんだ」
屋上は水場がないから料理がしにくいと考え、教室の方に荷物を広げたらしい。金魚鉢があるせいで、教室まで残りの荷物を運ぶのに3往復もしなければならなかった。
 階段から4階の廊下に出てすぐの教室。「図書準備室」。ドアの上から廊下に突出しているプレートを見上げる。
「『幽霊の出る図書準備室』…。懐かしいな」
思わず口に出す。図書準備室は図書室の隣にある雑多な物置代わりの教室で、俺がこの中学校に通っていた時はほとんど使われていなかった。そのせいか生徒の間では、図書準備室には幽霊が出るという話が定番になっていた。隣の図書室には鍵がかかっていて扉は開かない。図書準備室のドアを開けると中にいた二人が寄って来た。
「わっ、金魚だ!」茶髪の子が金魚鉢を俺の手から受取る。
「りんご飴も」黒髪の子はスーパーの袋を受け取ってりんご飴をじっと見つめた。

 廊下の水道が使えたので持ってきた調理器具でたこ焼きのタネを作っていく。二人に作り方を説明しながら俺はたこ焼き機をセットしてちゃんと動くことを確かめた。
「はい、出来ました!」
二人が差し出したボールには滑らかなタネが出来上がっていた。
「ありがとう。じゃ、焼いていこうか」
 窓の外に目を向けると日が落ちかかっていた。外より教室の中の方が明るいので、室内の風景が窓に映っている。頭にタオルを巻いて腕まくりをしている自分と目が合う。小学生のころ、屋台でたこ焼きを焼いていた父さんを思い出す。「えっさほいさ、えっさほいさ」と、どことなく野暮ったい掛け声をかけながらたこ焼きを突いて回していた父さん。賑やかな祭りの中で父さんは活き活きとしていた。俺は自分の父親の屋台に行くのが気恥ずかしかったが、一緒に祭りに行った近所の友達はいつも「お前の父ちゃんの店行こうぜ!」と腕を引っ張るので仕方ない風を装って行ったものだった。

 たこ焼き機にタネを流し込む。クリーム色のタネがとろりと落ち、黒い窪みを順番に埋めていく。黒髪の子はプレートで静かに熱されるタネの表面を見つめていた。茶髪の子は金魚鉢の水がぬるくなっていると言って金魚をコップに移し、鉢に新しい水を汲みに行った。火の通り具合が頃合いになり、竹串でたこ焼きを突いて丸め始める。無心で丸めていると、十五年前この教室にいた女子生徒のことが唐突に思い出された。

 俺が中学二年のとき、それまで元気だった父さんが突然、がんで入院した。がんが発見されたときにはすでにかなり進行していて治療の施しようがない状態だった。俺は毎日、見舞いに行く病院で弱っていく父さんをただ見ていた。見舞いがあるからと部活も辞め、昼休みは元気なクラスメイトとはしゃぐ気にならず、よくこの図書準備室で過ごした。ここには生徒も教師もほとんど訪れることがなかったが、俺の他にもう一人この教室に来る生徒がいた。隣のクラスの女子生徒だった。彼女は放課後いつも下校時間になるまでこの図書準備室で時間をつぶしていた。ここに来るのは二人だけだったので、たまにポツポツと短い会話をした。なぜここに来るのか尋ねると「人待ち」とぶっきらぼうに言われた。下校時間になると、彼女はいつも一人で帰って行った。彼女の名前や容姿はもう思い出せないが、いつも同じ本を持ち歩いていたのは覚えている。無表情でそっぽを向きながらつまらなさそうに話す子だった。
 「いつも読んでるその本、どんな話なの」
俺は放課後、見舞いに行く時間になるまでここで過ごしていた。彼女は宿題をしたり本を読んだりしていたがあまり集中している様子でもなかった。だから俺は暇を持て余したとき、たまに彼女に話しかけた。そうすると彼女は視線を下げたまま短く返答する。この時も彼女はいつもと同じように俯いたまま淡々と内容を説明した。その本は姉妹が主人公のファンタジー小説らしい。姉妹は森から帰らない母を助けるため、危険な森に分け入っていく。しかし母を探す途中で姉が死んでしまう。残された妹は森の魔女に騙されて殺されかけてしまう。しかしそこで幽霊になった姉が現れて助けてくれ、妹が母を助け出して森を抜け出るまで、そばで助言してくれるのだ。特に姉と妹の性格が対照的に描かれていると彼女は解説した。
「ふーん」
俺は気のない返事をした。そもそも質問したのも何となく手持ち無沙汰だったからだ。その頃は何をするにも投げやりな気分で、彼女との少ない会話も常にそんな感じだった。しかし賑やかなクラスの教室と違って、ここではそんな態度でいることが許されているような気がした。
「物語の中の姉妹っていつもそう。大人しく思慮深く美しい姉と明朗快活で可愛らしい妹。何でだろうね。現実はそんなバランスいい姉妹ばっかじゃないだろうに」
彼女は真剣な表情で本を見つめながら言った。俺は何も答えなかった。
「きっと、片方だけが優れていたらもう片方が可哀想だからだね。だから著者は公平に役割を振り分ける。小説家は神様より優しい」
彼女は不貞腐れたようにそう言うと二つ結びの髪束を絞るように握った。俺は森に取り残された姉の亡霊について考えていた。

 その年の夏から俺は夏祭りに行かなくなった。病院で衰弱した父さんを毎日見ているととても行く気にならなかった。祭りは夏休みに入って最初の週末に開かれるのが通例だったため、終業式の日はクラスが夏祭りの話題で持ちきりになった。小学校のころから一緒に行っていた奴らはみんな父さんのがんのことを知っていたので、控えめに誘ってきた友人ひとりに対して断ったらそれ以上俺にその話題が振られることはなかった。
「夏祭り、行かないの?」
いつものように放課後、図書準備室で彼女は怠そうに教室の壁に備え付けられた扇風機の風に当たっている。俺が質問すると窓の外に視線を向けてから答えた。
「行かない。一緒に行く人、居ないし」
「え、いるでしょ」
彼女はクラスに溶け込んでいるように見えた。体育などのクラス合同の授業で見かけるときは女子特有のグループ付合いも上手くしているようだったし、よく笑っていて喋り方もはきはきしていた。昼休みも自分のクラスで弁当を食べる。普通で明るい女子中学生のテンプレート。でもそれら全てはそつなくこなすためだけに作られたものであり、本来の彼女は退屈そうに頬杖をついているこの地味な生徒なのだ。俺は何となくそう思っていた。それでも夏祭りに一緒に行く程度の友人の一人や二人はいそうだった。
「夏祭りはいつも一緒に行ってた人ともう一緒に行けなくなったの。だからもう行かない」
俺はそのとき単純に、その意味するところが失恋の類なのだと思った。彼女も恋をするのかと他人事のようにぼんやり考え、クラスで常にそこはかとなく感じていた疎外感を思い出した。

 教室の一面窓を縦に貫く柱に習字が二枚貼られている。年明けの書道の授業は毎年、見本の字が提示されて学年全員が同じ字を書く。その日は「青春」が提示された。先生は地元出身の書道家らしく、やたらと声が大きいじいさんだった。
「まさに青春真っ只中に居る諸君に相応しい字ですな!さぁさぁ、見本はこのようにありますが思い思いに表現してくださいね。君たちの字に君たちの青春そのものが表れるはずですから。さぁ若いパワーで思いっきりね」
習字の授業なんて元々好きでもなかったけれど、この日の授業は特に居心地の悪い思いで過ごした。完成した字は家に持ち帰るよう担任から指示された。俺は名前の書いてある半紙を学校のゴミ箱に捨てるわけにも行かず、仕方なくカバンに突っ込んだ。そのまま父さんの病院に顔を出すのも家に帰るのも気が進まず、この教室に寄った。そして、彼女に三年前亡くなった姉がいたことを聞いた。
 「交通事故だから、世間的にはたまにある話だよね」
彼女の声はいつも以上に平坦で、顔も人形のように感情が乗っていなかった。
「両親も最初の方はすごく塞いでたの。お父さんは全く笑わなくなったし、お母さんは仕事も辞めちゃって。でもしばらくしたら、両親とも家族で出かけようってやたら言うの。今じゃ、ちょっとした買い物でもお父さんが車を出してくれて一緒に行くし、以前は本も置き場所がないからあんまり買うなって言われてたのに、今じゃ欲しい本は何でも買ってくれる。前からそんなに厳しい両親じゃなかったけど。二人とも忙しかったから、あまり構ってくることはなかったんだけどね」
彼女は机に頬杖をつきながら窓の外を見ている。息を大きく吸って吐くと、再び話し始めた。
「お姉ちゃんはこの中学のテニス部で、テニス以外にもダンスも習ってて、勉強の成績もよかった。スタイルが良くて性格も明るく溌剌。私は小さい頃からもじもじして言いたいことも言えない、そもそも自分がどうしたいかも分からないって感じだったのに。保育園じゃ『私の意見』はもっぱらお姉ちゃんが勝手に決めて先生に伝えてた。小学校に上がってもたまに私の教室にお姉ちゃんが顔を出すことがあったの。絵の具とか裁縫道具とか私は忘れ物が多くて、そうゆうの届けに来て…。教室の入り口でお姉ちゃんと話してると皆が私たちの方を見てて、居心地悪かったな」
そう言って眉間に深く皺を寄せ、不機嫌な表情をした。それからフッと息を吐きだすと机の上に両手を重ねて置いて、その手の甲をジッと見つめた。
「両親もたまに会う親戚もお姉ちゃんばっかり褒めてさ。おもしろくなかった。それに皆は知らないけどお姉ちゃんってすごく負けず嫌いだったの。小学校で手品がはやったとき、お姉ちゃんもやろうとしたけどぜんぜん駄目でね。お姉ちゃんも私も手先がすごく不器用なの。お姉ちゃんは普段は難なくできることばかりだったからよっぽど悔しかったんだろうね。それで私は何日もお姉ちゃんの手品の練習に付き合わされた。あとお姉ちゃんは目立つことも好きだった。夏祭りは近所の飴屋さんの屋台がりんご飴とあんず飴をセットで売るから毎年そこで一緒に飴を買ったの。お姉ちゃんは大きくて赤いりんご飴で私はいつも小さいあんず飴。りんご飴の方がずっと可愛くて。でも、私もそっちが食べたいって言っても、お姉ちゃんは譲ってくれなかった」
 それから俺たちは自分の習字を図書準備室の柱に貼った。
「はは。同じこと書いてやんの」
俺は彼女がカバンから出した字を見て言った。
「あんな字書きたくないに決まってる。字に私たちに青春が表れるって?それを家に持ち帰れって?あの自称書道家のクソじじいに評価されるのだって嫌なのに。ふざけんなって感じ」
吐き捨てるようにそう言った彼女の目尻はきつく吊って目の下の頬が隆起していた。俺はそれを見てなぜか声もなく笑ってしまった。
 俺が三年に上がる前に父さんは死んだ。それから学校にはほとんど行かず、卒業式にも出なかった。塾だけは通っていたので高校は地元の公立校に進学した。彼女がどこの高校に行き、その後どうしたかは知らない。


 ポチャンッ。
「これでよっし」
はっと我に返る。茶髪の子が帰ってきて水を入れ替えた金魚鉢にコップの金魚を戻したところだった。扇風機の風に乗って小麦粉の焼ける匂いが教室中を巡っている。
「わー、いい匂い!」
俺はたこ焼き機のスイッチを切って紙皿にたこ焼きを乗せていった。かつお節を振りかける。たこ焼きに着地したかつお節はゆらゆらと踊り始める。
「熱いから火傷しないよう気を付けて」
皿を二人それぞれに渡して一息付いた。集中していたせいか肩が凝っている。
「ちょっと煙草吸って来るわ」
俺は教室に二人を残して校庭へ出た。

 校庭の正門沿いのフェンス前には桜が何本か植わっている。俺は煙草を吸いながらその木立に沿って歩いた。今年もあの綺麗な、しかしわざとらしいほどに春めいた色のあの花を咲き誇らせたのだろうか。卒業して以来、ここには来ていないから分からない。今は枝が見えないほど濃い緑の葉が生い茂っている。それが街灯の青白い光に照らされ、風にザワザワと揺れている。煙草を地面に落としてスニーカーで火をもみ消した後、校庭の隅の体育倉庫を覗いた。扉の錠が壊れている。中に入っても暗くてよく見えないのでライターの火を灯す。ハードルやラダーが雑多に散らばりバスケットボールが円柱状の金網の籠に入っている。ふと奥を見やると壁に据付けられた棚の各段に同じ大きさの球体がいくつも均等に並べられていた。ボーリング場で用意されているボーリング球のように見える。目ぼしいものが見当たらなかったので、倉庫を出たところでもう一服してから校内に戻った。

 「ほら、お二人さん、イチゴのかき氷だよ」
おばさんが、天辺が鮮やかなピンク色に染まったかき氷を持って教室に入って来た。
「わぁ!ありがとうございます」
おばさんはニコニコ笑って頷いた。
「中井さんが屋上で作ってくれてね。待っててね、今メロン味の方も作ってもらってるからねぇ」
そう言って引き返していく。
「ほら、お姉ちゃん!」
彼女は嬉しそうに私の隣の机にかき氷を置いた。プラスチックのスプーンを二つ差すとサクサクッと音が鳴る。頭がぼうっとする。暑い教室でずっとたこ焼きの匂いを嗅いでいたからだろうか。何か忘れていることが頭に引っかかっていて、でも何を思い出そうとしているのかよく分からない。眠たいような、でも起きていなければいけないような…。室内には机が乱雑に置かれている。机の上の夏祭りらしい品々に視線を向ける。かき氷、ラムネの瓶、かつお節の乗ったたこ焼き、金魚鉢。りんご飴に手を伸ばす。
「ねぇ、これ、私が食べてもいい?」
「うん、いいよ」
彼女はたこ焼きを息で冷ましながら横目で頷く。りんご飴の大きな頭部を覆っているビニールを取り外して真っ赤な飴を舐めた。甘い。金魚鉢に私の顔が歪んで映っている。彼女はりんご飴を舐める私を見ている。
「夏祭り、また一緒に来られてよかった」
彼女が笑う。
「え…」
窓から風が吹き込む。彼女の瞳は少し濡れていて、まっすぐに私を見ている。
「ねぇ―――、公平じゃないよ。生きてると、生まれてくると何もかもが不公平なの。『何でもできる姉と地味な妹』みたいに。でもね、妹が目立たないから姉がチヤホヤされる。姉の方が期待される分、妹は気楽でいられる。いいことと悪いことってそうやって裏返しになったり、いつでも両面があって表裏一体でしょ。私たちは姉妹だから、二人で一つの姉妹だから。どっちかが死んでも、どっちかが生きてたら、生きていてくれたら、幽霊なんかにならないで安心して死に切れるの」
ぼんやりと輝く白いカーテンが大きく揺れる。視界がぼやけて彼女の顔がよく見えない。
「私が死んだ後、あんたは『理想の妹』になろうとした。本当は全然そんな性格じゃないくせに。馬鹿だね。そんなこと必要なかったんだよ。最初からあんたは私の一番いい妹だった。一番いい妹なの。だからもうこんな所で待つのは止めて、自分の場所に戻るの。戻りなさい」
「あぁ、お姉ちゃん」
全身が痺れて動けない。それなのに今までで一番、鮮烈な感覚が蘇ってきていた。

 「あぁ、お姉ちゃん」
階段を上って4階の廊下に出ると、黒髪の子の震える声が聞こえた。
「やっと会えた」
図書準備室の扉の小窓から中の様子を覗く。黒髪の彼女がりんご飴を齧る。りんご飴の表面にヒメリンゴの実の白い断面が出来る。
「ふふ、これ、中身はパサパサで不味いね」
顔を上げて笑った彼女の瞳からキラリと光の粒が落ちる。相手もそれに答えるように目を細めて静かに笑った。それから手に持っていたたこ焼きを口に放り込んだ。瞬間、
ドーーーーーンッ!
腹の底まで響く大きな音。教室の窓の向こうで、大輪の花火が弾けている。
ドーーーーンッ!
再び、大太鼓のような音。続いてパラパラパラ…と火花が散りゆく音。
ドーーンッ!パラパラパラ…、ドーーンッ!パラパラパラ…、
花火が弾ける。火花が舞い散る。俺はあっけに取られて立ち尽くしたままその光景を見ていた。が、ハッと気付く。体育倉庫の奥に並んだいくつもの球体…。
「あれ、花火玉だったのかよ!!!」
俺は弾かれた様に校庭へ走り出た。
「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ…」
意味のない独り言が口をつく。花火は上がり続けている。俺は校庭の隅にあるスプリンクラーのスイッチを探した。
「あった!」
地面に埋め込まれているスイッチは金属の蓋を開けないと押せない。しかししばらく使われていないそれは錆び付いていてなかなか開かない。渾身の力を込めて蓋を引くと全身から汗がブワッと噴出した。
「開かねぇ!開けぇぇぇ!」
ポツ…。
頬に水滴が当たる。
ポツ、ポツ…。
水滴はどんどん落ちてきてあっという間にスコールのようになった。
「あ…」
スプリンクラーが何とか作動したのだ。ホッと息を吐く。いや、そんなはずはない。スイッチを押すどころかまだ蓋すら開けていないのだ。見上げると晴れた夜空から大粒の雨が降りしきっていた。
「お天気雨…」
俺はぽかんとして降りしきる雨を全身で受けた。今日一日の労働とこの数分間の焦りで火照った肌に、冷たい雨粒が心地よかった。

 唐突な天気雨はすぐに止んだ。俺はびしょ濡れになったジャージの上着を脱いで図書準備室に戻った。扉を開けると二人の姿はもうない。代わりに机の上に本が一冊置かれていた。表紙を見ると、森を背景にして二人の茶髪の少女が描かれていた。ぱらぱらと捲ってみたが題名も中身も英語だったので何が書いてあるのかさっぱり分からなかった。
「ひゃー、急やったなー。間一髪だった」
中井さんが教室に入って来た。濡れた様子はない。
「おう、例のお二人さんは?」
教室を見渡して俺に尋ねてくる。机にはかき氷とたこ焼きが置きっぱなしだ。
「今の雨で濡れちゃって。風邪ひくと良くないから帰るように言いました」
「へぇ、そうかい、そりゃ残念。ちゃんと楽しめたかねぇ」
「はい、楽しんでました。すごく…、夏祭りができて本当によかったと思います」
中井さんは意外そうに俺を見て瞬きをした。狐につままれたかのような表情だ。それから、相好を崩した。
「あぁ、あぁ、そうかい、そうかい。そりゃあよかった。楽しんだならよかった。楽しいのが一番だ。楽しいだけが大事だ」
そして自分の言ったことに何度も深く頷いていた。

 それから急いで学校を退散した。あれだけ派手に花火が上がったから警察や消防が出動するのではないかと冷や冷やしたが意外にもそんな気配は全くなかった。直後のスコール的大雨のおかげで雷だったのだと思われたのかもしれない。母さんから衝撃の告白をされたのは、風呂から上がって冷凍庫のアイスを選んでいるときだった。
「母さん、中井さんと結婚するわ」
俺は母さんを振り返り、冷凍庫も自分の口も大きく開けたままで固まった。冷気が床の上を広がっていく。
「中井さんも私もけっこうな歳だろう。だから結婚しておけば入院やら手術やら色んな時に便利だろうってね」
俺はまだ唖然としている。母さんが俺の横まで来て冷凍庫の扉を閉めた。
「まぁ結婚ったって籍入れるだけだよ。引っ越しもしないしあんたの生活も特に変わることはない。今まで通りたまに一緒に出掛けたり、茶を飲むだけだよ。本当は随分前からプロポオズされてたんだけどね。私の勇気が出なくって、息子がいるからって言って断ってたんだよ。でもあんたがあーんなでっかい花火上げるもんだから、私も負けてらんないってね。踏ん切りがついたんだ」
母さんはそう言ってつり目を見事な糸目にし、口角を吊り上げてヒヒヒッと笑った。足元には白い冷気が漂っている。化け狐みたいだ。

 母さんと中井さんは翌日、市役所で籍を入れた。でも特に日常に変わりはない。俺は相変わらず無職でやる気も起こらない。しかし中井さんは前のように俺に説教することはなくなった。頻繁に家に来て茶を飲んでいるが母さんとばかり喋っている。強いて変化を探すなら、俺が絵本を読むようになったことだ。近所にある市営図書館の小さな分館で定期的に借りてくる。そんな習慣が出来たきっかけはあの本の訳本を探しに行ったことだ。肝心の原本は慌てて引き上げたときに置いてきてしまったようだった。しかし図書館で絵本コーナーまで探しても目的の本は見つからなかった。そもそも和訳自体されていないのかもしれない。暇つぶしがてら何冊か絵本を眺めると、これが案外おもしろかった。当然、内容は子ども向けだが子ども騙しではない。字以上に絵で語られる物語は劇的なものでも特別な主張があるのでもなく、生活の延長や生活そのものについてのものが多かった。しかしそこには子どもなりの必死さや苦悩があり、時には絶望さえある。それらはファンタジーじゃなくて紛れもないリアルだ。
 小さな分館は、初老の男性司書ひとりだけで管理しているようだ。初めて絵本の貸出手続きをするためにカウンターに行くとき、こんなどう見ても独身の男が絵本を借りることを不審がられやしないかと怖気づいた。しかしその男はとんでもなく不愛想で、何らかの反応をするどころかろくに俺の顔すら見ずに淡々と貸出手続きをした。それ以降、気にするのも馬鹿馬鹿しくなって借りたい絵本を躊躇なく借りている。

 今日も適当に選んだ絵本を4冊カウンターに持っていく。いつものように司書の男がカウンターに座っている。彼は無言で本と俺の貸出カードのバーコードを読み取るとカードに金色の丸いシールを貼った。小学校の教員が使うようなシールだ。
「え…」
予想外のことに俺が戸惑っているのを察したのか、彼は俺をチラリと一瞥してから視線をパソコン画面に戻して言った。
「週に5冊以上借りた人にはこのシールを貼ることになっているんです」
なるほど。これが今週二度目の貸出だから先日の貸出と合わせて5冊を超えたのか。小学生の読書推進のための取り組みだろうか。俺はもうかなりの大人なんだが。しかし不思議と嫌な気持ちにはならなかった。カードを持ち上げるとシールの金色が光を反射してキラリと光った。

 図書館を出ると突き抜けるような青空が広がっている。日差しに顔を照らされてこめかみを汗が流れる。
「あっついなー」
早くクーラーの効いた家に帰るため、俺は道の日陰を小走りに通り過ぎて行った。



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夏の思い出