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#2 憲法9条と占有とホッブズ

集団的自衛権を巡って

今回の憲法9条に関する投稿を書きながら,集団的自衛権をめぐるあの騒ぎは,もう7年以上前の出来事なんだな,と感慨深く感じました.

政府は1日夕の臨時閣議で、集団的自衛権を使えるようにするため、憲法解釈の変更を決定した。行使を禁じてきた立場を転換し、関連法案成立後は日本が攻撃されていなくても国民に明白な危険があるときなどは、自衛隊が他国と一緒に反撃できるようになる。「専守防衛」の基本理念のもとで自衛隊の海外活動を制限してきた戦後の安全保障政策は転換点を迎えた(『日本経済新聞』電子版,2014年7月1日 23:44配信)。

従来の憲法解釈は,憲法9条下では,集団的自衛権は許されない,というもので,国務大臣,内閣法制局長官らの国会答弁で積み上げてきたものでした.

この「7.1」閣議決定は,従来の憲法9条の解釈を変更し,一定の条件の下,行使は許される,という立場を明らかにしました.

当時,知識人,言論人の多くが反対の意見を唱え,あるいは,賛成の立場からの解説も行われ,連日,メディアが取り上げていたことを覚えています.反対,賛成に立場から,意見広告が出されていたようにも記憶します.

その後,国会に参考人として出席した,長谷部恭男教授をはじめとする憲法学者3人が,集団的自衛権を憲法違反と述べたことで,さらに騒動は続きました.

その時の様子は,長谷部恭男教授自らが「Synodos」での対談で答えているので,興味のある方はご覧ください(https://synodos.jp/opinion/politics/14433/).

しかし,7年が過ぎ,この事件も,日本政治の日常として,少しずつ埋もれつつあるようにも見えます.

憲法9条と占有?

さて,今日のテーマは憲法9条です.木庭先生は一体,憲法9条についてどのようなことを主張しているでしょうか.

まさにタイトルに憲法9条という語を含む,『憲法9条へのカタバシス』(みすず書房,2018年)から,ざっと見てみたいと思います.

実は,「憲法9条と占有」というのは,木庭先生にとっても新しい試みだったと思います(その意味は,最終段落の「補遺」参照).

その出自から言っても,法(占有)というのは,政治から相対的に独立して,今でいう民事法において見いだされ,発展してきた,というのが木庭先生のざっくりとした主張です.

なので,これを公法(国際政治)の分野に適用するときに,疑問がわいてきます.一見,成立の場とは異なる場面に,素朴に占有を当てもよいのか,と.

戦後日本の言論

『憲法9条へのカタバシス』においても,直ちに解釈論に入ってはいきません.政治的な議論を振り返るのは,典型的な法(民事法)の舞台設定とは,やはり異なるからでしょう.

木庭先生は,横田喜三郎(国際法学者),吉田茂,丸山眞男の発言を引用しながら,戦後日本の言論シーンを振り返ります.詳しくは『憲法9条へのカタバシス』をご覧になっていただければと思いますが,憲法9条の政治的な論拠として,①自衛のためと称して侵略的な戦争を行う可能性があるから,自衛戦争も禁止される(論拠P),②侵略戦争を行った日本は,近隣諸国の猜疑心を払しょくするため,軍備を放棄しなければならない(論拠Q),という二つの主張を析出しています.

木庭先生は,論拠Pを(あいまいさには不満を残すものの)基本的に妥当なものとし,論拠Qは,歴史的事実としては重いが,論理としては弱いとしています(「リアリズム」(論拠R)は省略).

侵略という事実は重いが,第9条が,まるで侵略に対する応報(報い)であるかのような考えに結び付きかねず,また,先の戦争の記憶が薄れると,機能しなくなる恐れがある(論拠Q).自衛権アプローチそのものが,侵略につながるという思考(論拠P)こそが,正統な系譜をひくのである,と.

憲法9条と占有

ここでやや結論を先取りしていうと,憲法9条は,自衛概念ですらない,占有を守るために,瞬間の押し返しのみが許される,そういう占有原理を宣言しているというのが,木庭先生の主張です.

イメージ的にはこうです.人と領土との間に「個別的で」「固い」関係がある.前回触れたとおり,占有概念とは,そうした人と対象との間を一定の関係を保障する.侵略には当然,抵抗できる.しかし,先に手を出してはいけないし,追って行って(たとえ,それが侵略者であっても)その占有を犯すことは許されない.

しかし,普通はこう考えます.私たちには自衛(権)はないのか.人が自らの領土を守るのが,自衛権であって,憲法9条も,自衛権を否定していないのではないか.

これに対して木庭先生は,こう答えます.自衛などというと,概念があいまいである.自国の領土ではなく,自国を守る生命線だから,などといって相手を攻撃すること(先制的自衛)すら許してしまう.エスカレートして,歯止めがかからない.

占有原理であれば,瞬間的に押し返すことが許されるのみで,将来に向かって武力行使などしない.それこそが,憲法9条が基づく原理であると.

すでに述べた政治的議論でいうと,論拠P(自衛概念の危険性)という伏線をきちんと回収しています.

自衛権濫用の危険にも目くばせし,かといって完全平和主義,無抵抗主義でもない.国際政治の反省にも深く裏打ちされており,占有という法概念にも接続している.一見,文句のない結論のようにも思われます.

さて,今日はこの解釈論が誘う,いくつかの思考(疑問)をたどっていきたいと思います.

ニワトリが先か,タマゴが先か

木庭先生によると,法(占有概念)は,紀元前450年頃,古代ローマで生まれたとされています.

政治的決定-全面的,総合的な価値判断-とは異なる特徴を有し,ある種の儀礼を核とする概念.儀礼とは,裁判(民事裁判)と考えてもらえればよいでしょう.

政治(とデモクラシー)に見られた,ディアレクティカ(自由で厳密な言葉のやり取り)の要素はやや減るものの,人と対象の関係性を保障するという,高度で技術的な価値判断が行う営みを特徴としました.

儀礼(裁判)は,占有原理を機能させる要素として,不可欠のものです.そうでなければ,政治システムの判断と,さして変わらないことになってしまいます.

占有の判断は,「洗練された意識を感覚ないし直感として内蔵する者が行う必要がある」(『新版ローマ法』p.56).陪審を念頭に置くと,裁判官とは限りませんが,いずれにしても,双方が「自分の方こそは対象との間に固い個別的な関係を有する」と言い張る中で,第三者に判断を委ねなければなりません.

そのような判断装置は,国際社会にあるのでしょうか.

国際連合=司法制度?

特定の意味を持つ「法」(占有)を語るためには,儀礼,判断装置,言い換えれば,裁判制度が必要となります.

では,国際社会にそれは存在するのか?木庭先生は,次のように語ります.

「第二次世界大戦後の体制は,実力行使を伴う装置を手段として有する司法制度,つまりは国際連合の存在を不可避とした」(『憲法9条へのカタバシス』p.44).

木庭先生は,「国際連合=司法制度」であるとしています.

素朴に考えると,国際連合(以下,国連)は司法制度と考えられていません.どのように,あるいは,どの部分(機関)が司法制度なのでしょうか.

またその構成員は,「洗練された意識を感覚ないし直感として内蔵する者」でしょうか.

まず国連には,国際司法裁判所があります.しかし,『憲法9条へのカタバシス』には,国際司法裁判所にわずかに一か所言及があるだけで(同p48 脚注57),明らかに重視していません(国際司法裁判所の「勧告的意見」をはじめとする限られた任務は,ここでは取り上げません).

では,ここでいう司法制度とは,具体的には何を指すのでしょうか.国連憲章は,以下のように定めます.

国連憲章 第39条
安全保障理事会は、平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為の存在を決定し、並びに、国際の平和及び安全を維持し又は回復するために、勧告をし、又は第41条及び第42条に従っていかなる措置をとるかを決定する。

憲章上,武力紛争との関係では,国連の安保理が主要な責任を負っており,占有侵害を判定し(「存在を決定し」),それを断ち切る,場合によっては,実力をもってそれを取り返す(「維持し」「回復する」)役割を担います.

国連を総体として語るのではなく,司法制度を切り出す(分節=articulation)するならば,憲章上は,安保理しかないように見えます.

司法制度としての資格?

それでは,安保理は,儀礼を担う資格を有するでしょうか.国際社会において「法」の存在を肯定するため,やむなく(?)安保理を司法制度として認める,というのではなく,事の性質から考えたときに,安保理は司法制度たりえるのでしょうか.

安保理は,常任理事国と非常任理事国からなります.また,常任理事国には,拒否権が認められています.少なくともこれらの国(とりわけ,5大国)は,自らの関与した事案(紛争)について,「司法機関」として判断する立場に立つことになります.第三者性は確保されていません.

また,安保理の構成員は,通常,各国の代表として参加する国連大使です.国連大使は,自己の利益を代表する者という位置づけです.

木庭先生は,国連や国際司法裁判所の機能不全について語りますが,原理的な資格要件については,問題視していません.資格要件(高度な価値判断をする能力,第三者性,等)は国際社会では不要なのか,仮に必要だとして,それは、国連はその要件を満たしているのか.必ずしも明らかではありません.

素直に考えると,国連,あるいは安保理は,政治的な機関,フォーラムです.法的な判断に相応しいようには思われません.

国連の置かれた現実

また,国連は,ニューヨークに本部を置き,アメリカという領土の中に存在しています.「領域」の中にどっぷりつかっています.

加盟国の分担金・負担金を通じて支えられており,依存しています.加盟国と互酬性があるのではないか,という疑念も拭えません.

また,安保理は,先の拒否権の存在や当事者性から,加盟国の利害関係と密接に絡み合っているのではないか(枝分節組織),とも思われます.

法を語る資格を有する以前に,「政治」や「デモクラシー」が成立する前提条件すら満たしていないのではないか,とすら思えてきます.

もちろん,ここでは,「法」を狭い意味で捉え,木庭先生の主張との整合性を探ろうという,やや特殊な議論をしています.

なので,ニューヨークに本部を置いたり,分担金の存在,安保理自体を,非難するために,上のような議論をしているのではありません.

つまり,木庭先生が,法を厳密に「占有」と解して,戦争違法化に新たな意味合いを与えようとする姿勢に即して考えようとしたときに,「司法制度」という意味合いに無頓着に,国連と同定してしまうことに,抜き難い違和感がある,ということです.

国連を司法制度(切り出すならば,安保理が該当)と捉えるという点は,木庭先生特有の詰めた議論からみて,何かアンバランスなものを感じます.より詳しい弁明が必要と思われます.

軍事組織との近接性

また,上記引用では,「実力行使を伴う装置を手段として有する」司法制度ともあります.

司法制度と,実力行使を伴う装置を密接,一体的に捉えていることもまた,気になります.

木庭先生は,一方では,憲法9条2項を論ずる際に,「政治システムに対する軍事組織の徹底した透明性,軍事組織と政治システムないし市民社会の厳格な分節的関係,この二つの要請する方面に2項の規定は大きな意味を有するかもしれない」(『憲法9条へのカタバシス』p.43)と述べています.

「軍事組織と政治システム(と)の厳格な分節的関係」

これこそが,都市(公共性)と領域,分節(articulation)と枝分節(segmentation)の峻別,といった概念から自然に導かれると思います.

しかし,国連については,「実力行使を伴う装置を手段として有する司法制度」といいます.「軍事組織と政治システム(と)の厳格な分節的関係」という言葉を並べると,一層奇妙な印象を受けます.

ちなみに国連憲章では,1945年の国連創設以来、正規の国連軍が組織されたことはありません.その意味で,不全に陥っています.ただいわゆる特別協定は,安保理が加盟国の軍隊を利用するために協定を結ぶことを想定されており,「厳格な分節的関係」というよりは「実力行使を伴う装置」と区別されない状態(未分節)が組み込まれているようにも見えます.

さらに国連は,機能不全の中,一層「未分節」ともいえる方向性を模索してきました.

朝鮮戦争時には,国連決議に基づいて,実体は米軍を中心に組織された「国連軍」が組織されました.また,湾岸戦争に際して,安保理はクウェートに進攻したイラクに対して「必要なあらゆる措置をとる」ことを承認する決議を採択し,それに基づいて,米軍を中心とする多国籍軍による軍事行動がとられました。

実際にはアメリカを中心として,主導的に「司法制度」としての役割を果たしつつ,同時に「実力行使を伴う装置」を提供あるいは調達してきました.

それらは単なる現実面での機能不全なのか,原理的に国際社会において「軍事組織と政治システム(と)の厳格な分節的関係」が実現困難なことを示しているのか,木庭先生の言説からは,あまり明確ではありません.

補遺

先に述べた通り,「憲法9条と占有」というのは,木庭先生にとっても新しい試みだったと述べましたが,それは,ローマ法を基礎(基層)にしながらも,近代ヨーロッパへの接続を試み,新しい層を生み出そうとした,と意味においてです(サヴィニーも一つの層を生み出したように).

木庭先生は,最新の研究(Warrender, Malcolm, Hoekstraら)に依拠しながら,トゥキディデス,ホッブズらについて思い切った解釈を施して,次のように語ります.

Hobbesは,一層徹底した人文主義によって,法学ないし占有原理をも知り抜いたうえで,Thoukydidesによりこれを突破するというより,Thoukydidesの最深部に一人到達し,公権力のロジック内部に,占有原理を完全に組み替えてそれとわからぬほど奥に潜ませた(『憲法へのカタバシス』p.24).

その主張の当否については,ホッブズを読み込み,Hoekstraらも参照しなければ,精査することはできません.

ホッブスを巡る議論が,木庭先生の主張(憲法と占有の接続)を裏から支えているのですが,残念ながら,今回のnoteでは,それを取り扱う力はありません(ごめんなさい).

ホッブズは,木庭先生にとって,特別の意味を持った存在です.大きな影響を与えている,と言っても過言ではありません.そして,その言論に一定のbiasを与えていることも事実です.そこに切り込むという課題は,今後の宿題とさせてください.

それでは,尻切れトンボをご容赦ください.今日は一回目以上に,できの悪いゼミ生のようなレポートでしたね.本日はこれまでです.ではまた!

(追記)

結局のところ,憲法9条の解釈論として占有を貫徹しようにも,付随する前提条件についての議論が足りないのではないか,結論の先取りではないか,という問題意識があります.

自衛権に濫用のおそれがあるとしても,しかし,(国際社会における)占有原理には,実効的な制度的裏付けがなく,救済の観点からも不足があるとすれば,それに無責任に身をゆだねるわけにはいかない,というのが率直なところです.占有概念をここで持ち込むのは思考のショートカットではないか,と思えてしまいます.

木庭先生が一定程度評価しつつ,しかし正義論,自衛権に親和的と難じるグロティウスこそ,実は,ローマ法の占有を理解しつつ(この点は木庭先生も認めている),そこに振り切らなかった点で,実はより現実に即しているのではないか,と思います.


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