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ヤンキーとセレブの日本史vol.20 明治時代その2

ようやく国内も落ち着いてきて、いよいよ西洋マフィアどもと不平等条約の改正の交渉です。
堂々と「日本なめんな!」と言ってふざけた条約を変えさせなければなりません。
 
ヤンキーの政権の中ではシマを守ることが何よりも大切なことです。
西洋マフィアが地球上のいたるところでシマ荒らしをしている中で自分のシマを守ることは容易ではありません。
シマ荒らしから自分たちの身を護るには、強くなって西洋マフィアに「弱い者いじめはやめるんだ!」と主張する方法と、自分たちも西洋マフィアと同じく荒らす側に回るかのどちらかを選ぶことができますが、日本もヤンキーですから当然後者を選びます。
 
ヤンキーである人類が「弱い者いじめはやめるんだ!」と言えるようになるのは、ここから起きる大きな戦争を経て、弱い者いじめをやりまくっていると最後はものすごく痛い目にあうということを嫌になるくらい身をもって実感した後です。


日本のシマはどこまでか

シマを守るためには、そもそも自分のシマがどこまでかを正確に主張できなければなりません。そして、自分のシマと隣接している他所のシマから攻め込まれないように対策をしなければなりません。
まずは曖昧になっていた地域を日本のシマに正式に組み込みます。

北海道

昔は蝦夷地と呼ばれていた場所、北海道にはアイヌという元々住んでいる民族がいます。農業技術が発展する前は寒すぎて農業には不向きだったので、狩猟採取で生活しており、統一した政府をもたずに各地で小さな集落を形成して生活していました。アイヌには日本人が勝手に決めた国境など関係ないので、北海道だけではなく樺太など現代ではロシアの領土になっているところにも住んでいます。
アイヌの文化は非常に美しい紋様の織物、歌や踊りなど様々な文化を持っています。これは縄文時代のときにも触れらましたが、狩猟採集社会であることは、合理化・効率化などに忙殺されずに、心を豊かにすることに向き合うことができていたからではないかと思います。
 
アイヌとの貿易は江戸時代から行われており、日本人はアイヌから搾取しつづけていました。西洋マフィアがやってきたことと同じように日本人に有利な条件で貿易をします。怒ったアイヌが大きな戦争を仕掛けてきたこともありましたが(シャクシャイン戦争 1669年)、日本人はその手打ちの宴会でアイヌの組長のシャクシャインをぶっ殺すという外道な手を使ってアイヌを支配下に置いていました。
江戸時代、アイヌは別に日本人ではなかったので、ロシアとも交易しますし、時には樺太のサハリンまでカチコミに行き、原住民族のケツモチをしていた中国(元)と抗争するなど、日本とは違うよその組との関係を持っていました。
 
北海道はロシアと海を隔てて向かい合う土地です。ここにロシアが拠点を持つと一気にやばくなります
明治になり、シマの境界を確定しないと守れないということで、明治2年に日本のシマに組み込まれます。アイヌがロシアの国民だと言われたら困るので、明治4年に戸籍法でアイヌも日本人にさせられますが、「旧土人」という扱いで、他の日本人よりも格下の扱いを受けます
アイヌはシマをぶんどられ、日本人らしく生きるために、アイヌの文化も制限されるようになります。今まで住んでいたシマをぶんどられ、シノギも狩猟採取から農業などに変えさせられ、しかもあまりいい土地ももらえないという状況で、アイヌは貧しい生活を送らなければならないのでした。
 
一方でアイヌからぶん取った土地や何もない原野に移住してきた内地の人間もめちゃめちゃ大変な目にあいます
まずは屯田兵。北海道の開拓をしながら、ロシアのカチコミに備える兵隊が入ってきて、町や道とかのインフラを作ります。
その後、パンピーたちもやってきます。来るのは貧しい農家たちや失業中の武士たち。自分の土地もなく、北海道に来て開拓したら自分の田畑を持てると聞いて移住してきます。しかし、寒すぎる気候のせいで、故郷の作物は育ちません。何が育つのか分からない中、もってきた種を全部まいてなんとか芽を出したのは麦とか豆とか雑穀くらいです。雪が深く極寒の中でつらい思いをしながら、開拓を進めます。
北海道の各地には貧しかった時代の記憶がまだ生々しく残っています。知り合いの子どもが十分に食事ができなくてかわいそうで、お菓子をあげようとしたら、親から「せっかくまずい食事に慣れてきたんだから、美味しいものを食べさせないでくれ」と言われたりしたような話も伝わっています。
農民は冷害、水害、虫害などに見舞われながら、荒れた土地に雑穀をまいて農業を発展させて今の農業・酪農の繁栄を築くのです。
 
北海道には貧しい開拓者とアイヌが協力をしたという歴史も、アイヌを差別しまくったという歴史もあります
土地を奪った内地から来た和人も貧しく、アイヌも貧しく、手を取り合って協力しながら北海道で農業という新しいシノギを作っていった側面もあります。開拓者がアイヌの祭りに参加するなどの交流の記録も多く残っています。
しかし、結局は差別の方が優勢な時代が長く続きました。
その一因として、国の施策でアイヌは和人よりも格下扱いをし、不利益を押し付けてきたことがあるでしょう。次第にパンピーの中でもアイヌに対する差別が広がりました。

ヤンキーの組織では、盃を交わせば誰でも仲間に入れますが、盃を交わした以上は一家の一員として組のしきたりを守らなければなりません。他の組のしきたりを持ち込むことは、親分への忠義が足りないあかしです。
だから日本政府はアイヌも日本人への同化をすることを求めました。しかし、元々持っていた文化を捨てることは難しい。日本人に同化することだけが正しいとしたことが、アイヌの文化の独自性を尊重できずに、差別に追いやることになったのでしょう。 


明治後期の北海道を舞台にした漫画ゴールデンカムイ。日露戦争の帰還兵不死身の杉本と、アイヌの少女アシㇼパがアイヌの隠した金塊を探し北海道中を旅する冒険譚。2014年から2022年までヤングジャンプで連載したヒット作品。作者の野田サトルはアイヌにも何度も丁寧に取材をして本作を描いた。取材したアイヌからは、「可哀想なアイヌなんてもう描かなくていい。強いアイヌを描いてくれ」と言われ、そのとおりにアイヌ文化の素晴らしさを社会に知らしめる作品となった。

  

沖縄

沖縄はかつては琉球という日本とは別の組でした。琉球は江戸時代に薩摩組の脅しにより日本の傘下になります。しかし、同時に中国の子分でもありました。他にも朝鮮や東南アジアなどの様々な国と貿易のシノギをしていました。
 
江戸時代、外国との貿易のシノギは幕府に独占されていました。そんな中、薩摩組は琉球にカチコミを行い、むりやり盃関係を結びます。琉球は元々ケツモチだった中国(明)に助けを求めますが、秀吉の朝鮮出兵で疲れ果てていた明はそれをシカトします。子分のケツモチもできない親分は長く続かないもので、その後明はすぐに滅びます。
そういう経緯で、琉球は中国と薩摩の2つの組の傘下になるのです。
 
明治時代になって、国境をきちんと決めないと他のマフィアにシマを荒らされるということで、琉球も日本の領土にしようという議論が出てきますが、カネがかかるし、あいつら日本人じゃねーじゃんという差別意識から明確に決めきれません。
とりあえず廃藩置県で薩摩組から名前を変えた鹿児島県のシマということにしておきました。
 
明治4年には中国(清)と条約を締結しました(日清修好条規)。日本も西洋マフィアにやられたように外国に不平等な条約を飲ませてやろうと思っていました。中国は西洋マフィアにいいようにカモにされてるので、日本は自分たちも同じことができると思いましたが、さすがに大国中国はぽっと出のヤンキーにそんな不利な条約を結びません。しかし、中国としても日本と敵対して西洋にまた付け入る隙を作っても嫌なので、平等な条約を結んでやりました。日本としては初めての平等な条約です。
 
ところがその年、台湾に漂流した琉球の漁民が台湾の原住民にぶっ殺されるという事件が起きます。日本もヤクザとして、因縁をつける原因ができれば、そこから何かを分捕ろうと当然のように考えました。それにその頃不満を抱えた士族の反乱などもあり、国内での不満のガス抜きをする必要もありました。
因縁をつけるためには、殺された琉球の漁民が日本国民であると言わなければなりません。日本は台湾に兵隊を3000人くらい連れて行った上で、統治していた中国(清)の首都北京に乗り込んで「うちの組のものを殺した落とし前つけろや」と言って、賠償金をせしめました
これにより、琉球は日本の領土となり、名前を沖縄県に変えさせられます。
 
琉球にも内地とは異なる気候や環境、様々な外国からの影響を受けてつくられた独自の文化がありましたが、日本の組員になったからには、日本式のしきたりをまもらせないといけません。こうして琉球でも元々の文化を制限し、同化政策を進めていったのです。

多文化共生

日本人がアイヌや琉球という日本の内地とは異なる美しい文化をそのままで価値があると思えるようになるまでには長らく時間がかかりました。
文化とは優劣があるものではなく、それぞれが独立した価値を持っています。これに対して文明は効率・生産性というわかりやすさがあるので優劣がつきやすいです。より生活が豊かになる技術を持つ文明の方が優れているというのは誰もが直感的にわかりやすいですから。
進んだ文明を持つと未開のやつらの文化自体を下に見るようになります。暴力やシノギの力で制圧して、「あいつらの文明が遅れてるのは、文化が未開だから」という理由で納得するのです。西洋マフィアも同じことをしましたが、日本もその道をたどるのです。そして、同じことをアジアでもしようとします。
 
現代の社会では多文化共生が大切だという意識が建前としてだけかもしれませんが共有されています。多文化共生は現代に急に生まれたものではなく、人が多く集まる国では歴史上何度も出てきています。
例えば中国では「属国」という近所の国を子分にするという仕組みを使って統治することもありました。距離や文化の違いから来る摩擦とかもあって自分のシマに組み込むのがやりにくい場合は、子分にして言うことを聞かせる手法です。基本は子分であると忠誠を誓えば内政にはさほど口出ししません。
イスラム世界の組はイスラム教を中心に組を作りますが、ジズヤといって他教徒には重めに税金をかけることで国内で共生できる仕組みを作りました。
古代ローマ帝国は本国以外のシマを「属州」と呼び、役人を送りみかじめを取るかわりにその土地の文化風習にあった統治をさせました。
完全ではないし、問題もたくさんありますが、人類は自分と異なる文化と共存する仕組みを色々と考えてきました現代の多文化共生政策も多くの問題を抱えておりまだ発展の途中ですが、そうなれることを目指しているのだと思います。
 
しかし、日本にとっては特に新しくとったシマの独自性を尊重して統治するという方法は不慣れでした。
最後に異文化をシマに組み込んだのは平安時代の東北地方の征伐くらいですから、あまりにも外の文化との付き合い方を知らなすぎました。同じ時代を見渡して参考になるのも圧倒的な暴力&シノギで激しく服従させる仕組みを作った西洋マフィアしかいないのでお手本にもなりません。
 
こうして、アイヌや琉球と同じく、みんな日本人にするという方法しかしらないまま、日本はアジアに進出していくのです。
 
そして、現実と理想にはいつも乖離があるものです。
新しいシマの住民みんなが日本人になったらいいと思うのは支配する側の勝手な都合です。実際にそうはなりません。支配される側は便利な文明は受け入れても、自分の文化やこれまでの生活の風習は捨てられません。そうすると皆日本人のはずなのに、日本人になりきれない人もいることになります。
そうなると、現実に即して日本の中に他の文化があることを認めるか、または理想を優先して、他の文化を優先する人は格下扱いするか。
日本は日本人の文化を受け入れきれない人たちを格下に扱いました。アイヌのことは元土人扱いです。沖縄やその後併合された朝鮮の人も差別されました。同じ日本人のはずなのに、日本人になりきれない人を差別するという構造が生まれます。日本人であることを尺度にして、どれだけ日本人に近いかでランクが決まってしまいます。見た目や文化の違いはすべて劣っているからという意味付けをされてしまいます。
文明と文化を分けて考えるということ、社会の中に複数の価値の尺度が混在していることが認められること、これがなければ差別する構造はなかなかなくなりません。

自然発生する現象としての差別に向き合うには

とは言え、差別などほっとけばどこでも起きるものです。それぞれの地域で日本文化を受容してきた後も差別は消えなかったという話も山程あります。特定の民族や属性の差別はいけないと言って、その差別を消しても他の違うものに優越感を持つ人が出てくるのは当然のことです。

差別されている属性を見つけて「その属性だけ」は差別の対象から外そうという解消法では、次々と新しい差別の対象が生まれてきます(もちろん、個別の属性ごとに差別してはいけないということを啓発し、不利益を解消することは大切ですが、それだけでは解決しません。)。
逆に、私達は差別されている対象だから特別に扱えと主張し、批判されれば「弱者を差別するのか!」と言い利権をチューチューしようとするやつらも出てきて、いつのまにか当事者でもないやつらも利権に群がってきます
 
アイヌや琉球の文化は、内地の日本人にとって美しいから価値があるものではなく、内地の日本人の感性にかかわらず価値のあるものです。たとえ自分にはよさを感じられないものがあったとしても、それを大切にしている人がいるというだけで価値はあるのです。

自分たちに価値のあるものだけは差別の対象から外そうという考え方では、差別はなくなりません
自分にとって価値があるか、理解できるかという自分本位の物差しで他人を測るのではなく、自分が大切に思っていなくとも、他人が大切にしているものも尊重するということが大切です。本来の多様性(ダイバシティ)とは、自分にとって不快なもの、理解できないものでも尊重する姿勢が必要な心地の悪いものです。

無意識に行われている差別はまだまだたくさんあります。ヤンキー文化もその一つです。
残念ながら多くの人にとってヤンキー文化は価値があるものではないです。だから、ヤンキーを多様性の仲間にいれようという発想は出てきません
ヤンキーの文化をダサいと言う人も多くいますが、ヤンキーたちはかっこいいと思って改造車や特攻服に特別な感情を抱いています。違法な行為と文化としての表現は切り離して考えなければならないのではないでしょうか。そのうえで、ヤンキー文化を愛する人達も自身と同じく尊重すべきと思える世の中であってほしいです。

国交省が不正改造車を排除する運動で作ったポスターです。ここでは不正改造車をダサいと言ってますが、これをかっこいいと思って乗っているヤンキーたちもたくさんいます。不正改造車は安全性の問題での指摘はされるべきですが、族文化を部外者の視点でダサいと切り捨てるのは、差別の構造と同じではないでしょうか。
そもそもこのイラストのバイクのハンドル、車のチンスポイラー(フロントバンパー下部の部品)の形状やタイヤの角度などはヤンキーの改造では一般的ではない形状であることからも、このポスターを作成した人のヤンキー文化の理解が浅いことが推察されます(暴走族と普段対峙するのは警察で、国交省はあまり馴染みがないのでしょうけど)

 

西洋マフィアの組事務所に乗り込む

岩倉使節団

西洋マフィアから機械を買ったり、技術指導をしてもらい日本も文明開化してきたので、西洋マフィアどもに不平等な条約を改正させるように言えるんじゃね?と思い始めてきました
そこで、明治4年に政府の幹部衆たちが世界一周して西洋マフィアの組事務所行脚をすることにしました。
メンバーはセレブの岩倉具視を団長にして、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などの大物幹部たちと留学生含めて107人の大きな所帯でした。飛行機とかない時代なので時間がものすごくかかります。結局2年間もかかりました。
組の仕組みもまだ十分に出来ていない中、大物幹部衆たちがいなくなるというのはなかなか大変です。留守組は西郷隆盛、山縣有朋、大隈重信などがいますが、使節団は重要な政策は手紙で相談しろよと言い残していきます。まあ無理なんですけど。
 

条約改正は?

最初に行ったのはアメリカです。アメリカでは文明が進んでいて、使節団のヤンキーたちは汽車とかエレベーターとか水道とかの文明の利器にいちいちビビりまくります。
アメリカ組長である大統領に会って条約を変えろと言いますが、天皇から交渉の権限を授かってる証拠の「全権委任状」見せろやと言われます。ヤンキーたちはそんなもの持ってるはずがありません。片道20日かけて急いで取りに戻ります。そして気づくのです。そんな西洋マフィアの世界では当たり前のこともわかってないのに条約改正できるわけねーと。
開き直って、西洋マフィアどもの組を勉強することがこの旅の目的だと言うようになります。
その後、ヨーロッパを回って色んな組の組長に会ったり各地の産業を見たりします。そして、西洋マフィアと五分で話をするには、組の仕組みも西洋マフィアレベルに整えなければならないということを痛感します。ちゃんと法律に基づかないで好き勝手政治や裁判をやるのは道理も分からぬ三下のやることです。三下だと思われたら、西洋マフィアからは交渉してもらえません。組の貫目を示すには、きちんとした仕組みのある組にならなければなりません。使節団はその後ヨーロッパに渡り、西洋のいろいろな組の政治の仕組みを見ながら、憲法や組の組織をどうしようか考えました。
 

居残り組困る

長い間留守のくせに、重要なことは手紙で相談しろとか言われても組の政治が回るわけありません。しかもあわてて全権委任状を取りに帰ってきて、条約改正でもヘタを打つありさまなので、居残り組は使節団にムカついていました。
留守政府はそれでも頑張って、前回お話した四民平等とか富国強兵とかの政策をやりました。
 
問題になっていたのは朝鮮との関係です。
幕末の最初に西洋マフィアが来た頃、日本のヤンキーたちは初めて外国を意識し始めました。まだ現実的なことがわかっていなくて、こうなったらいいなという根拠もない耳障りのよい話が多く議論されました。その中に日本も朝鮮半島や中国をシマにしちまえという話があり、明治になっても根強く残っていました。
こういう考えはヤンキーであれば当然の発想ですし、現実的なことを考えるとロシアも朝鮮をシマにしたがっているという事情もあります。実際にロシアは中国(清)からシマを切り取って、朝鮮との国境までシマを広げていました。
朝鮮をロシアに取られるとロシアがすぐとなりにやってくることになります。最低でも朝鮮にはロシアを突っぱねるだけの力を持っていてほしいと思うのですが、朝鮮の組長は他所の国とは付き合わないと言っています。朝鮮は長い間中国の属国としてケツモチをしてもらっているので、わざわざ開国はしなくともよいと思っていますし、西洋マフィアとは小競り合いをして撃退もしています。新しく別の外国と付き合う必要性をそんなに感じてないのです。
その一方で中国が西洋マフィアに食い物にされていることも見ているので、開国すると自分たちも食い物にされるという恐怖感も持っています。
 
留守政府は朝鮮と国交を結ぼうと何度か打診しますが、朝鮮からは断るとの返事しか返ってきません。西郷隆盛とか板垣退助の一派はもうやっちまうかとか言い出すのですが(征韓論)、さすがに他の国と事を構えるのを独断で決めるわけにはいかないので、使節団にも帰ってこいと手紙を出します。
使節団が返ってくると西郷隆盛が朝鮮に行ってナシつけてくるとか言ってます。
西洋マフィアとの力の差を見て帰国した使節団組は、今は揉め事なんかしてないで組の力を蓄える時期だと言います。そしたら、西郷が朝鮮行けないなら政府辞めるわとか言い出します。西郷に辞められては困るので、やっぱ行ってもらおうということになるのですが、今度は木戸や大久保が「なら俺等が辞めるわ」と言い出します。
仕方なく最後は天皇に決めてもらうことにしました。岩倉が自分の意見をつけて西郷の意見を天皇に持っていったら、天皇は岩倉の考えどおりに今は組の力を貯める時期だと判断しました。
西郷はブチ切れて政府を辞めます。でも流石に西郷と完全に切れるとまずいので大久保は西郷の軍の役職だけは残しました。板垣退助とか江藤新平とかの征韓論派も一緒に辞めていきました(明治六年政変)
 

自由民権運動のきっかけ

大久保許さねー

政府を出ていった征韓論派はその後政府を仕切るようになった大久保利通にムカついています。大久保は内務省という組織を作り、権力を一手に握り国の仕組みを整えていきます。
 
板垣退助は、大久保に権力が集まるのが気に入りませんでした。そこで「議会開こうぜ!」と言い出します。大久保だけが決めるのはおかしいし、そもそも薩長のやつだけが政治やってるのもおかしい。国民みんなで選んだ人が政治やるべきだよなと言い、政党を作り、議会を作る要望を書いた「民撰議院設立建白書」を政府に提出しました。
ちなみに、出ていった組の他のメンバーも政府に従いませんでした。江藤新平は地元の佐賀に帰って反乱を起こしましたが、九州の端っこで起こした反乱は大きな影響は与えずにすぐに鎮圧されます。
 
そもそも江戸時代が終わり、明治になってすぐに民主化したのではありません。
明治維新は近代化や民主化を目標に始まったものではありません。西洋マフィアにナメられるし、子分のシノギも保障できない親分の資格のない徳川家を追い出すために始まったものです。近代化は西洋マフィアからシマを守るための手段であり目的ではありません
民主化の方にしても維新が始まった当初は徳川を本家にした体制を壊すというだけの話で、民主的な政府を作ろうなんて目標はありませんでした。最初の政府は薩長が中心の様々な系列の組の合議にしています。
明治政府はとりあえず西洋と同じにしないとナメられると思っていて、西洋の仕組みでも必要なものと不要なものがわからないまま取り入れていた状態でしたし、国民全体が協力しないと強い組にはなれないという事情もありました。そんな中で西洋マフィアがやってる選挙とか議会とかの民主化の仕組みをいれるのも仕方ないかなということで、遅延行為や嫌がらせはしても本気で潰しはしませんでした。
 

そんなことで民主化運動が始まっていいのか

明治になるときに掲げられた組の基本ルール「五箇条の御誓文」の最初には、「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と書かれています。
この草案を作った福岡孝弟という人が「広くとは人々の意見を広く集めて会議するというのではなく府藩県にわたりて広く何処にも会議を興すという義です」と言っています。そのへんのヤンキーやパンピーにも政治参加させるなんて考えてもいなかったのです。徳川だけで決めるということに対しての、広くいろいろな組の意見を聞くということだったのです。
 
板垣退助を始めとした自由民権運動のやつらは、五箇条の御誓文にも議会を開いてパンピーも政治参加させるって書いてあるじゃねーかと言いますが、書いてないです。
 
対立して出ていって、残った大久保が権力を持っていることが気に食わねーということで、板垣退助の自由民権運動が始まりますが、民主主義の始まりってこんなんでよいのでしょうか。
 
でも、西洋の民主主義も始まりはもっとロクなもんではありません。最初にイギリスで王の権限を制限した「マグナ・カルタ」というものが出来た時も似たようなものです。王が子分からカネや兵隊を巻き上げて隣の組のフランスと抗争して負けて帰ってきたら、子分たちが怒り狂ってるので、仕方なく王はもう勝手にカツアゲしませんと約束させられました。ただの子分の怒りや恨みです。
その後も子分たちの力が強くなるたびに、王が勝手なことをするのを制限していきますイギリスは、暴力&商売の弱いものいじめを世界規模でやってたのでパンピーにもカネを持つようなやつらも出てきて、特にその流れが強く進みました。
しかし、「俺等を王と対等に扱え」という要望は、他の人の共感を得にくいものです。そこでヨーロッパで「啓蒙思想」というものが重宝されるようになります。三権分立とか社会契約論とか、社会の授業で聞いたことがあるかもしれないアレです。王ではなく国民に主権があって、権力がきちんと抑制されるのが公平公正な社会だよなという話で、最終的には人間は誰もが尊重されるべき人権があるという話になります。自分の問題なのに主語を大きくして語るやつは現代にもたくさんいます。
でも、人権とかみんな平等とか言い始めたあとも西洋マフィアは植民地の奴らは俺等とは格がちげーからと、外道な扱いをし続けます。自由も人権も最初は、そしてそれは進歩しているとは言え残念ながら今でも、普遍的に人類誰にでも当てはまるものではなく、言ってる人の身内だけにしか向いていないものです。
自由や人権は「俺等を王と対等に扱え」という動機から生まれて、そのままでは自分勝手すぎて耳障りも最悪なので、美しい啓蒙思想の言葉でオブラートに包んだものです。
 
しかし、このフィクションも言っているうちにみんなが信じて大切にするようになり、社会の最も大切なルールになってきます。板垣退助が追い出されてムカつくという話で始まった民主主義もこのあと、国民の大きな共感を引き起こして国会開設にこぎつけるのです。
人権も民主主義も社会保障も、今の社会の基盤になっているものはロクでもない動機から生まれているものが多いです。でも、出自がロクでもなくとも、それがあることで特定のヤンキーやセレブが自分勝手にシマを治めるよりも遥かにマシな社会になっていますし、これらもまだまだ発展途上のものです。

現在の日本国憲法で民主主義が不断の努力で保持されるものとされているのは、民主主義も人権も人類史の中のある時点から急に出てきたフィクションであるからこそ、大切に扱い、社会の中で機能させ、進歩させなければ消えてしまうものだということを意味しているのでしょう。
 
 


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