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ヤンキーとセレブの日本史vol.21 明治時代その3

西洋マフィアにナメられない国をつくり、不平等条約をなくすという強い気持ちで、ようやく憲法と議会が設置されることになります。
これは現代にまで続く、日本の民主主義の第一歩であると同時に、西洋マフィア強盗団の仲間入りをして外国を荒らしまくる第一歩となるのです。


怒りと民権運動

元武士の士族たちは怒っていました。武士はこれまで特権階級だったのに四民平等とか言って色々と権利を奪われました。
パンピーの農民たちも怒っています。政府がカツアゲ(課税)をしてくるのです。自分の土地を持てるようになったのはよいけれど、カツアゲがきつくて生活が厳しいです。

鹿児島に帰った西郷隆盛は地元のヤンキーと一緒に反乱(西南戦争)を起こしますがすぐに鎮圧され、自害してしまいます。その抗争のさなかに木戸孝允も病死し、すぐ後に大久保利通も暗殺されます。維新から政府を支えていた3人が一気に抜けてしまいます。
新しい組の形を作る仕事は、伊藤博文や大隈重信に引き継がれます。

パンピーたちの怒りは自由民権運動という形で過激に進んでいきます
政府も西洋マフィアになめられないようにするためには、西洋マフィアの基準で憲法や議会を作ることは必要だと思っています。
板垣退助たちが煽るので、パンピーの間にも憲法とか自由とかの言葉が広まっていきます
政府の有力者伊藤博文は天皇を中心とした憲法をじっくり作ろうと考えてました。逆に大隈重信はできるだけ早くイギリスみたいないろんな政党が参加する議会中心の憲法を作ると考えており、揉めています。

そんな中、政府のスキャンダルが表に出ます。北海道に国がカネを出して作っていた工場とか農場があったんですが、北海道開拓の責任者だった黒田清隆が自分の出身の薩摩組の仲良しに安く売っぱらってしまったのです。
これでパンピーは激怒。新聞社にタレコミをしたと疑われた大隈は政府を出ていき、伊藤は10年後に国会開設するからと言ってパンピーたちをなだめて時間稼ぎをしました。

こういう流れになったので、いろんな政党ができたり、自分たちでオリジナルの憲法案を作ったりすることが流行ります。
真っ当にどういう組の仕組みが必要かを考える人がいる一方、パンピーたちは生活の苦しさから「自由民権運動」と言いつつ暴動を起こしたりしました。江戸時代なら田畑を一生懸命耕していればなんとか食っていけたのに、急に競争社会とかに放り込まれても困ります。そこに自分たちを正当化できるお題目が落ちているなら、それを掲げて暴れるしかないでしょう。

すんなりと通った民主主義

本来であれば、憲法を作るとか議会を開くとかが一番揉めるところなんです。
西洋マフィアの国でこういう考えが広まり、それが形になるには数百年の時間をかけて、おびただしい量の血が流れることが必要でした。
そこには権力を手にしている王などのセレブの抵抗が激しかったこと、パンピーがセレブに対抗できるようになるまで植民地の弱いものいじめでカネを貯めるまでの長い道のりがあったのです。

ところが、日本はパンピーがちょっと抗議するくらいですんなり通りました。それは、西洋マフィアの基準にあわせるために憲法も国会もいずれは作らないといけない事情があったからです。西洋マフィアどもは自分たちだけが優れていて、それ以外はカスだし、カスとは対等に付き合う価値はないと思っていたからです。憲法を持つというのは文明国の証でした。

西洋マフィアの問題がなければ、平安時代の摂関政治のように天皇を立てた上で、薩長がセレブ化して世襲で組を治める方が美味しいに決まっています。しかし、このときの状況は、西洋マフィアになめられない組を作ることが一番大切でした。西洋の何を真似て、何を真似ないかの判断もよくわからないので、全部真似ようという方向性です。やり方の違いでの揉め事はあっても、大きな方針は政府の中でも憲法や議会を作るという方向は同じでした。

一方で中国とか朝鮮を見てみると、この時期に西洋式の憲法も議会の導入もされませんでした。政権をとって短く既得権益もまだ少ない明治政府と比べたら、中国の皇帝や朝鮮の王は権力を手放すには失うものが大きすぎます。議会も憲法も皇帝や王の権力を制限するためにあるので全然魅力的ではありません。独裁国家が憲法や議会を持つには自由の制限などのチューニングが必要になりますが、この時点ではそこまでして入れるメリットはありません。

そして、中国は日本のようなぽっと出とは違い、ケンカにもシノギにも自信があります。多くが田んぼに縛り付けられ耕していただけの江戸時代の日本と違って、中国は10世紀には貴族制がなくなって、自由にシノギをして経済を発展できる社会になっていました。
それに、多少西洋マフィアにケンカで負けたからと言って組の仕組みを西洋式に変えるなんてしたら、組員にも、子分にしている周りの国にもひよったと思われてしまいます。
中国はその後もっと切羽詰まってから西洋マフィア+日本ヤクザに対応できるような国を別の形で作っていきますが、この時点では、西洋マフィアと同じような国にすることに何らメリットを感じられないのです。
朝鮮もケツモチとして中国がいるので、組の根本の制度を勝手に変えられないし、変える必要もないと思っています。
西洋マフィアは自分たちが憲法とか議会とか持つ前からシマ荒らしをしており、この時代地球上の大多数の組はすでに植民地にされているか、西洋マフィアの強い影響下にあるかだったので、他の組はそもそも西洋マフィアにナメられないように憲法や議会をいれようとか考える状況ではありません

もちろん日本の新しい組を作った人たちは必死に考え努力しました。しかし、日本人が他の人種よりも優秀だったから明治維新からの近代化が早く進んだというわけではありません。国際情勢の影響と、環境適応のために変化しやすい条件がたまたま整っていたからです。

鹿鳴館とヤンキー文化の伝播の法則

それでも時間が経ってきて、ようやく西洋化の中で必要なものとそうではないものがあるんじゃね?と勘がいい人は気づくようになってきます。

鈍い人は未だになんでも真似ればいいと思っています。外務大臣の井上馨が鹿鳴館というダンスホールを開いて西洋マフィアの外交官とかとパーティーをしました。西洋風のパーティーをすれば文明国と認められると思っていました。
しかし、実際西洋マフィアの外交官は裏で田舎者が超ダセーことしてるとバカにしていました

これはヤンキー文化でも説明ができる現象です。
かつて、黒ギャルが流行ったとき、東京よりも北関東の方が黒かったという話があります。ヤンキー文化は周辺部に行くとその象徴的なところだけが極端に強調され間違った形で伝播されるという法則があります。
栃木、茨城、群馬、千葉の田舎は東京まで在来線がつながっており、ヤンキーたちも頑張れば東京に来ることができます。しかし、お金も時間もかかるので、そんなに頻繁にはいけません。数回東京の文化を見て、一番印象に残るところだけを覚えて、その特徴を強調すれば都会の文化をコピーできると誤解するのです。

私は、腰履き(ズボンのウエストラインを腰骨のあたりまでずらして履くファッション)が流行っていたときに、群馬の電車の中でパンツ丸出しの男の子を見たことがあります。彼は、腰履きは下げれば下げるほどかっこいいと誤解してパンツを丸出しにするまで下げたのでしょう。当然東京でパンツ丸出しで歩いている人はいません。本場の文化には全体のバランスや目立たないところでもルールやマナーがあります。
ところが、長野や新潟まで行くとこういうやりすぎヤンキーはいなくなります。長野や新潟から東京に行くのはもはや大掛かりな旅行であり、東京で本物を見たことのないヤンキーが大半を占めます。だから情報源はメディアを通じてのある程度正確なもののみとなり、やりすぎることはなくなるのです。
北関東のヤンキー文化は、東京から誤った形で情報が伝わるという地理的な特性により成立しているのです。

鹿鳴館もやりすぎヤンキーと同じで、西洋マフィアからしたらダサく見えるだけなので、文明国のアピールとしては逆効果すぎです。
鹿鳴館は、無駄遣いで西洋マフィアに媚びていると批判されまくりました。そして、鹿鳴館を作った井上馨が不平等条約を解消するために、裁判に外国人判事を入れようとかいう西洋マフィアに媚びた案を出して炎上して失脚すると鹿鳴館も終わりました。

そろそろ不平等条約を変えるためにナメられないようにするには、全コピーをする必要があるのか?そもそも全コピーはできないのではないのか?西洋マフィアから学ぶものの中で本当に必要なものは何なのかが考えられるようになります。

不平等条約って何だっけ

改めてですが不平等条約って何でしたっけ?不平等条約には「治外法権」と「関税自主権」の2つが含まれています。

「治外法権」とは、西洋マフィアのファミリーメンバーは日本でやらかしても日本の法律で裁かれないというルールです。不平等条約が結ばれた当時は、切腹(武士にしかさせないけど)とか打首して晒すとか頭のおかしい刑罰がよくわからない基準でまかり通っていました。そんな社会で自分のファミリーが裁かれて殺されるとかはありえない話です。

治外法権を変えるために本当に必要なこととは、あらかじめルールや権限を定めて、政府が権力を行使できるのは、決められた範囲内だけという仕組みを持つことです。
難しい言葉でいうと「法の支配」といいます。その反対は「人の支配」で、偉いやつが気分で勝手に振る舞うことです。西洋マフィアは王との長い戦いの中で、王であってもみんなで決めた法律に従うというルールを獲得してきました。
そもそも議会ができて法の支配が出来たきっかけは、王が勝手にカツアゲをしてくるのを止めさせたいという動機からです。カツアゲされる側も参加して、王の権限を制限するために議会ができました。
そのためには、法律づくりにみんなが参加すること、特定の人だけ贔屓して特別扱いしないことが必要です。
誰かの気分で野蛮な刑罰がされないということを西洋マフィアに信じてもらうには、社会全体が法律に定められた手続きで回るようにすることが大切で、そのために憲法と法律を皆でつくる議会が必要なのです。刑罰だけではなく社会全体の仕組みとしてです。難しい言葉でいうと立憲主義です。

もう一つの「関税自主権」とは貿易の際にかける税金を西洋マフィアが一方的に決められるのを止めさせたいという話です。マフィアどもは自分より弱いやつには強気に出ます。これを変えるには、まずはケンカでナメられないことが大切です。
西洋マフィアの組の中で憲法は愛国心を育てるためにも重要な機能を持っていました。組員が皆、組を自分のものとして大切にし、自分が守るんだと思う気持ちを持つことが、戦争で鉄砲玉になったり、上からのカツアゲを我慢させて、組の力を強めるのです。日本にもその気持が必要なため、憲法には国民の権利も盛り込まれるのです。

伊藤博文の考える大日本帝国憲法

伊藤博文は憲法を作るためにヨーロッパに勉強に行きます。
教科書では天皇がいる日本と同じように王様がいるプロイセン(ドイツの前の国)の憲法をお手本にして大日本帝国憲法を作ったと書かれていますが、伊藤はドイツでは塩対応されています。憲法みたいな文明国にしか扱えないものを日本が持てるわけねーだろ位の感じで、雑に扱われます。伊藤が憲法を学んだのはオーストリアの学者シュタイン先生です。

シュタイン先生は、組の心を体現する「組長」、意思決定をする「立法機関(法律をつくるところ、議会とか)」、実際に手を動かす「行政機関」で構成されていて、その3つのどれかが強くなりすぎないようにバランスを保つようにしていくことが大切だといいます。伊藤はこの理論をめちゃくちゃ気に入ります。
伊藤は、自由民権運動とか言って暴れまくるパンピーを信用していないので、こいつらが選んだ議員が強くなりすぎることを不安視しています。
新しい日本は天皇を中心にまとまった国なので、天皇の求心力を維持することも大事ですが、天皇がすべてを決める国であってもよくありません。シュタイン先生は組長はお飾りでよくて立法や行政がやることにいいね!と言えばいいと考えています。
これは現在の憲法の象徴天皇制に近い考えで、伊藤の憲法の構想の段階ではそのようになっていました。

明治憲法は現行の憲法と比べて天皇主権で民主的ではないと評価されることが多いです。これは半分合っていて半分合っていないと思います。
お手本にしたプロイセンの実態を見ると、皇帝が直接政治に乗り出すということも結構ありました。日本では明治から戦前までの歴史で、天皇が自分の意思で政治に直接乗り出してきたことはほんの少しのケースを除いてありません。よくプロイセンの憲法を参考にしたと言われますが、明治憲法下の天皇の権限は実態としてプロイセンよりもだいぶ抑制されています。
ヤンキーの話からずれまくっていて恐縮ですが、シュタイン先生は憲法は憲法があるだけでは機能させることができず、その下に作る行政法などの政治の仕組みをあわせなければ機能しないと考えていました。これはその通りで、日本より先に憲法を実装したトルコは運用ができなくなって憲法を停止させていました。
大日本帝国憲法の下では天皇の顧問として枢密院(すうみついん)という日本オリジナルの組織を作りました。平安時代の天皇を補佐すると言って実質しきっている関白のようなものです。確かに明治憲法の条文のみを読めば天皇主権に見えますが、他の制度とあわせて、実態として内閣(または枢密院)が政治の意思決定ができるようになっていました。天皇主権になっていますが、天皇が勝手に政治をできないような制限は設けていたのです。

しかし、民主的ではないというのはそのとおりです。というのは、この憲法には内閣(組の最高意思決定機関)のことが書かれていません。現行の憲法では選挙で選ばれた議員の投票で総理大臣が決まり、総理大臣が他の大臣を選びます。
ところが、明治憲法では有力者が話し合って天皇に推薦するという形で総理大臣が決まります。

ドイツじゃなくて選挙で選ばれた議員の力が強いイギリスをお手本にするという方法もありましたが、これ早い段階から候補から外されました。だって、自由民権運動とか言って農村一揆をして暴れているヤンキーたちが信用できるわけないじゃないですか。視察に行った西洋マフィアの国だって、議会制を入れたら、ヤンキーたちが政党を作って自分たちの利益だけ主張して政治が回らないという実態がありました。

君主、行政(内閣)、議会の全部がバランスを取れないと組が潰れる。その中でコントロールできるのは自分たちが属している行政。伊藤の憲法案は行政を強めにしてバランスを取るという考えで出来ています。でもこれでは他のみんなが納得しません。こんなやり取りがありました。

「伊藤、オドレ天皇陛下を差し置いて組長になりたいんか?陛下が組の政治の権限を全部持つのは当然じゃろ!」

「これは陛下のことを思ってじゃ!もし陛下が直々に政治をされて万が一にでも悪いことが起きたら、陛下の責任になってしまうじゃろ。陛下の顔に泥を塗らんように、わしら子分がよく考えて決めて、何かあったときにはわしらがけじめを取るのが一番いいんじゃ!」


「この組員の権利ってなんじゃ、組員ごときは分際をわきまえてればいいんじゃ。(※)」

「その気持は分かるがな、兄弟。フランスの『人権宣言』っちゅう西洋マフィアが皆読んでるやつに『諸権利の保障が確保されず、権力の分立も定められていない社会には、憲法は存在しない』とか書かれてるんじゃ。これが出来てないと、わしらが憲法つくったとしても、西洋マフィアの奴らにはパチモンだってアヤつけられるんで、入れんわけにはいかんのじゃ。」

※「分際」はヤクザ言葉での脚色で入れたのではなく、本当に憲法草案の中で使われていた言葉です。憲法制定時の議論の中では権利などいらない、義務だけで十分と考えていた人もいました。

結局のところ、現実的には伊藤の案に近くなりますが、伊藤が独裁するんじゃないかという懸念は払拭しきれず、憲法には内閣のことは書かれず、総理大臣の権限はかなり弱い状態で落ち着きました。
しかし、この総理の決まり方の曖昧さ、総理の権限の弱さが後々の混乱を招くのです。
多数派をとっても総理になれるとは限らないし、逆に総理になっても多数派出身じゃなければ議会でゴネられて法案も予算も通らない。反抗する大臣がいてもクビを切れない。民主的な制度のタガが外れているので、最終的には軍部独裁にまで行ってしまうのです。

憲法の公布に先立ち、伊藤は国の仕組みもいじりました。
1885年に内閣を作り、大臣を配置します。天皇の周りのことを政治の実務から切り離すために内閣の外に宮内大臣をつくります。伊藤は初代総理大臣になりました。
そして、議会の全部がよくわかんねーパンピーにならないよう、教養のあるセレブで固めた貴族院を作るために、旧貴族たちに格付けをしていきます。

憲法発布される

内閣ができてから2年後、1889年、議会が開設され、憲法も発布されます。
民権運動の名のものとに暴れまくっていたヤンキーたちは憲法とかよくわかりませんが、国がおめでたいことだから祝えと言ってきます。最初は憲法とかなんだかよく分からなかったパンピーたちも次第にお祝いムードになり、憲法が何かよくわからないままに国中で盛り上がります。
自由民権運動でちゃんと研究していた人たちは思っていたよりいい憲法じゃねーかと歓迎します。
そして、その後、税金を15円以上払っている男だけに限定はされましたが、選挙が実施され、パンピーたちが選んだ議員が議会に参加するようになるのです。

しかし、伊藤たち政府の側は喜んでばかりではありません。ヤンキーが選んだ議員たちが議会にやってくれば、必ず自分勝手な主張をし始めるはずです。当時首相だった黒田清隆(北海道長官のときに国の財産を身内に安く売り払って大炎上した人)は憲法が発布された翌日に「政党が中心になって政治させるなんてゼッテーに許さねーからな」と言っています。まあこの時点では薩長ばかりが政治をしきりやがってという批判も強かったので、選挙に基づいて総理が決まる仕組みをいれたら、自分たちが追い出される可能性もありましたので。

これまでの日本の法の概念は中国の影響を多く受けてきました。儒教を中心とする理屈で固められていた古来の中国の政治は道徳と不可分です。例えば武家諸法度などは幕府に都合のいいヤンキーとしての生き様を説いただけのものです。
これに対して、西洋の法は個人の権利をいかに保護するかという社会の中での実利を実現するものです。西洋の法を研究し始めた頃、日本人は道徳的な記述がなく、個人の利益追求に役立つ西洋の法を理解できませんでした。もちろん西洋の法にも道徳的な背景はありますが、条文に書かれているのは、それを実現するための技術的な方法だけなので、表面的にそう見えるというだけの話です。

自分たちの常識で理解できない、そして権力を持っているものにとっては憲法と議会などない方が都合がいいにもかかわらず、伊藤を始めとした人々は強い意思を持ってこれを学び作りました。
最初は西洋マフィアと対等に交渉するためだったのですが、法の支配を確立し、国民が自分の国のことを自分ごととして大切にする気持ちを持つことが国を強くすると信じるようになったからでしょう。

明治憲法は今から見れば人権の意識も低いですし、権力が暴走しないようにする仕組みも不十分で、その結果大きなやらかしをします。しかし、法や政治の技術は科学技術と同じく、現代でも発展途上の段階です。
戦争、差別、貧困が起きるのはヤンキーとしての自然の摂理です。放っておけば必ず発生するのです。現代の日本に生きていると暴力による解決をしないことが当たり前の状態に見えますが、なんのしがらみもなければ、自分の意見を通すためには暴力以上に手っ取り早くて効果的な手段はありません。法や政治や道徳の進歩で暴力を使うと損をする社会になったから、普通の生活で暴力が使われなくなっただけです。
人類は戦争、差別、貧困などを抑制する技術として宗教、道徳、法、政治などの技術を開発しつづけてきましたが、未だに完全な技術を作り出せてはいません

明治憲法は内容が不十分であり、その結果外国に多大な迷惑をかけたり、軍部独裁やそこからの無謀な戦争を防げませんでした。しかし、不完全ながらも、法の支配と民主主義を日本に導入する一歩として大きな意義を持っています。政治と法の第一歩は不完全な形でしか踏み出せないものなのです。
伊藤たちはこんなものを導入すれば絶対に議会で揉めてやりにくくなると十分理解していました。それでも国の未来のために、権力を持っている側なのに憲法と議会を作ったということは、とても大きな功績だったと私は思います。

念願の不平等条約改正

そして、念願の不平等条約が改正されるのです。
憲法は西洋マフィアの国にも配られます。よくできていると褒められたようです。
日本もそれなりの国だと思われはじめました。

条約改正のきっかけは、イギリスがロシアと揉め事を起こしたことです。イギリスが日本にも協力しろよと言ってきたことをきっかけに、陸奥宗光という外交官が1894年に治外法権を撤廃させ、その後他の組もイギリス組がやったんならしょうがねーと追従してきました。
関税自主権はその後1911年になりますが、小村寿太郎という外交官がアメリカと交渉し見直しになるのです。

日本はこれで西洋マフィアの強盗団の末席にいれてもらうことができます。
そして、西洋マフィアと同じ様にヤクザ丸出しでよそにシマを広げていくのです。


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