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ヤンキーとセレブの日本史 Vol.5 平安時代 その2

 

貴族の絶頂期 

道長のポエム

田舎でのヤンキーたちの反乱もありながらも、平安京に遷都して約200年後、貴族の時代は、絶頂期を迎えます。
その主役は藤原道長という人です。
 
まずは彼の書いたポエム(和歌)を見てみましょう。
 
この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば
 
「この世は、すべて俺のもの。満月のように欠けることなく完璧に。」という意味の歌です。
 
インターネット古典にも語り継がれている名言がたくさんあります。
「ガイアが俺にもっと輝けと囁いている」
「働いたら負けかなと思ってる」
「乗るしかないこのビッグウェーブに」
「ブルーボトル日本開店おめでとう。西海岸で飲む、いつもの味。僕にとって新鮮みがないことが、成功の証だと思う。」
など、名言がたくさん残りましたが、きっとこれは50年先には忘れ去られているのではないでしょうか。
 
まさか1000年も語り継がれて、教科書にも書かれる黒歴史になるとは、本人も思っていなかったでしょう。
 
こんなパワーワード満載のポエムを詠むことができるのにはそれなりの裏付けがあります。
 
貴族がパワーを発揮するために編み出した「外戚」という技。娘を天皇と結婚させて身内になり、最終的には天皇のおじいちゃんになって裏から操る技です。
道長は娘を3人も天皇と結婚させることに成功しました。
邪魔者は排除しまくり、やりたい放題でした。
 

平安時代の女流文学が生まれた理由

天皇だって女性の好みはあります。
だから、有力な貴族だからといって自分の娘を必ず結婚させて、たくさんいる后の中から一番愛してもらえる存在にできるとは限りません
性格の相性や容貌など、個人で変えられないところで勝負が決まってしまうこともあります。
実際に道長の娘の彰子が嫁いだ一条天皇は、他の后がお気に入りでした。
 
そこで、道長は彰子に天皇の気を引くために、面白コンテンツをたくさん用意しました。
それがあの有名な「源氏物語」です。
現代でも古文の教科書にも乗るくらいの有名な作品ですが、イケメンがいろんな女の人と遊ぶちょっとエッチな物語で(教科書には当然エッチではないところしか載りません。だからおもしろくないのです)、この当時の貴族が夢中になった作品です。
その作者である紫式部を彰子のそばに仕えさせました。
現代で言えば、うちの娘と仲良くしたら、作者が描いたばかりの「ワンピース」や「キングダム」の最新作が読めるよと言っているようなものです。それはその子の家に入り浸りになるはずです。
 
そんな形で、道長を始めとし有力貴族がおもしろい作品の作者を囲い込んだことで、女流文学が大きく発展しました。
 
ところで、これだけ絶大な権力を持っていた藤原道長ですが、教科書に載るレベルの功績は、摂関政治のピークだったということ(功績なのか?)、女流作家の文化を育てたということ、「この世をば~」の和歌を詠んだことしかないんですよ。
まさか何もないわけ無いだろうとWikipediaで生涯を見てみたのですが、こんなにすごい権力もっていたのに、後世に残る政策が何もないのです。もしかしたら専門書読んだら分かるかもしれませんが、この連載はヤンキーの話なので、セレブのことにはそこまで首を突っ込みません。
ああ、貴族はやはり権力には関心あっても、政治には関心がないのだなと改めて思いました。
 
 

貴族の世界の終わり

地方の政治は、国司にまかせています。
国司の中でもめんどくさくて現地にいかずに都から指示出しをする人もいます(遙任)。
実際に現地に行って仕事をする国司のボスを「受領(ずりょう)」と言います。
 
農民もカツアゲから逃げるためにあの手この手で受領から逃げ回り、カツアゲがだんだん難しくなってきます。
そこで、地元の農民を取りまとめ役として「名主(みょうしゅ)」という地位につけ、そいつらにカツアゲをやらせるようになります(名主は国の領地にも貴族とかの私有地にも配置される管理人のような役割です)。
前の方で話をした土地をたくさん開墾した有力農民である「開発地主」にも役所の仕事を手伝わせるようになってきます。
中央の貴族はパーティーとかで忙しいので田舎のことになどかまっていられません。最初に作った律令の仕組みが無視されるようになって、どんどん「受領」や「開発地主」などの地方に根を張った勢力が力を蓄えていきました。

国司、受領、名主、開発地主など色々と出てきて分かりにくくなってきます。理解のポイントはどこに権力の源泉があるかと、誰の言うことを聞くかを知ることです。
中央の威光を使っているのか、地元のヤンキー達を子分にしてるのかが重要です。開発地主は地元のヤンキー勢力です。受領、国司は中央の仕組みに組み込まれており、名主は国司とか荘園(シマ)のオーナーによる雇われ管理職みたいなものです。
 
そんな中、平家一門の千葉のヤンキーが反乱をおこします。
朝廷は、これまた清和天皇の子孫である武士「清和源氏」の源頼信というヤンキーに頼んで、ヤキをいれさせにいきました。頼信はケンカが強くて有名なヤンキーでした。千葉近辺の関東のヤンキーは皆降伏して、頼信の子分になりました。
ここから関東は源氏のシマになっていきます。
 

末法の世という言い訳

地方ではヤンキーが力をつけて反乱する。貴族たちはそれを収めるために別のヤンキーに頼る。
地方からの上納金も少なくなり、ヤンキーなしでは国が回らない状態になってきています。藤原一家をはじめとする貴族の力は衰えていきました。
 
なんでこんなことになったのでしょうか。
ちゃんと政治していなかったからに決まっています。
 
ところが、セレブたちは自分たちが間違えていたなんて決して考えません
この頃、釈迦の死後二千年経つと仏の力が衰える「末法」の時代が来ると言われており、この頃(1051年頃)その末法が始まったと考えられていました。
 
貴族たちはセレブらしく、こう考えました。
「こんなに世の中が悪くなったのは、仏の力が衰えたからだ。」
いや、大半の庶民はもとから貴族の政治のせいで大変な生活していました。急に大変になったのは貴族の世界だけの話です。貴族が言う世の中とは自分たち貴族の世界のことだけの話なんです。
 
仏の力が衰えたから、道長の息子藤原頼通は、道長の別荘を改装して平等院鳳凰堂という極楽浄土を再現した寺を造りました。10円玉の裏の建物です。
貴族が考える極楽浄土を模したクラブのVIPルームのような内装の部屋に、一流の仏師が彫ったとても美しい仏像が置かれています。
 
しかし、平等院鳳凰堂の力を持ってしても貴族のターンは戻ってきませんでした。
この先からは、天皇とヤンキーのターンに変わります。
 
 

武士の時代のはじまり

藤原一家の力が衰えたことと、当主の藤原頼通の娘が男子を産めなかったことで、久しぶりに藤原の孫ではない後三条天皇が即位しました。
 
権力を取り戻したときのパターンはいつも決まっています
まずは、シマを本家が召し上げる。新しい荘園や手続きに不正のある荘園は取り上げるといって、藤原一家のシマも例外なく取り上げました。
次にやったのは、上がりをきっちりと取ること。枡の大きさの統一、布の品質の統一、物の価格の基準づくりなどをしました。単位があっていなければ税がどれくらいになるか計算しにくいので、きっちりみかじめをとるには、とても大切なことです。
これをやった後三条天皇は白河天皇にバトンタッチし、天皇がヤンキー武士を使いながら政治をしていく時代になるのです。

源氏の台頭

東北地方は朝廷の一門に下りましたが、まだ地元の組が幅をきかせていました。
盛岡の安倍一家は、国から派遣されている国司の言うことも聞かないので、朝廷は源氏の組長、源頼義にヤキいれてこいと派遣します。ビビった安倍一家は降伏します。
しかし、源頼義の若衆が殺されてしまう事件が起きました。源頼義は安倍一家の仕業と決めつけて抗争を始めますが、寒い土地で意外と安倍一家が強く、苦戦します。仕方ないので、地元の清原一家に助太刀してもらい勝ちました。(前九年の役)
その後、その清原一家の兄弟での跡目争いが起きるのですが、源頼義はそこに割り込んで抗争を収めます。(後3年の役)
が、朝廷は勝手に兄弟げんかに首を突っ込んだんだろうと言って、褒美をくれませんでした。内心源氏が強くなりすぎるのを恐れていたのです。源頼義は、子分たちに褒美をやらなければならないということで、自分がためこんだポケットマネーから子分に褒美を出しました。お陰でだいぶ貧しくなってしまったのですが、親分の侠気に子分たちは打ち震えます。源頼義の評判は高まり、多くの武士が一門に下りました
源氏を弱らせようと思ったのに、逆に強くなってしまったことで、朝廷は源氏をこちら側に取り込むことにしました。
ヤンキーの身分なのに、天皇の宮中に入ることを許され、警備を任されるようになりました。もはやセレブの時代ではなく、暴力が渦巻く時代に突入してきたため、朝廷も暴力のアウトソーシング先を必要とするようになってきました。
 

院政の時代

白河天皇は早々と引退します。しかし、引退はポーズで、実際には裏から天皇を操るポジションとして「上皇」という地位につきます。
 
この時代衰えたとは言え、まだ貴族の力は残っています。その力を引っ剥がすためにはシマを召し上げて(荘園の整理)、人事も有力貴族の息のかかっていない実力のあるものを取り立てる人事をしていく必要があります。
敵を作る話で色々と邪魔が入るので、天皇はその矢面に立たなければなりません。上皇になることで、批判はすべて天皇に受け止めてもらい、自分が自由に動けるようになります。
 
もう一点、天皇家の力を高めるためにはシマ(荘園)を集めなければなりません。
しかし、天皇の立場は公人です。その立場でシマを集めれば、集めた上がりは国の財産になってしまいますし、あまり無茶なこともできません。
それに外国と貿易をするのにも国を代表する天皇の地位は色々とめんどくさいことになります。
引退してカタギになることで、自由に財産を作って天皇家の力を溜め込むことができるようになります。
 

上皇の弱点

しかし、絶大な権力を持つ白河上皇にも弱点がありました。それは寺です。
平安時代に奈良の仏教が口出しをしてくるのが嫌で、新しく桓武天皇がスポンサードして延暦寺をつくりました。が、今度はその延暦寺が自分たちの荘園を減らすなと武装して朝廷にいちゃもんをつけに来るようになりました。奈良からも興福寺が参戦しています。
農民たちが国のカツアゲから守ってもらうために、寺にケツモチをしてもらっていたことで、寺は多くのシマを抱えるようになりました。シマを持つと力が強くなるし、力が強くなると自分の意見を無理に通そうとするようになるのは歴史の鉄則です。
 
 
やり方は本当にヤクザです。
寺の荘園を減らすのは神仏を軽んじているからだと因縁をつけてきて、延暦寺は朝廷の門の前に神輿を置いていくと言います。
 
想像してみてください。「お前の家の前にオヤジ(組長)のベンツ停めとくから丁寧に扱えよ」と言われたらどうでしょうか?小さな傷でもつけたらどれだけゆすられるか、それどころか傷をつけなくとも元々ついていた小さな傷を指して、お前がつけたんだろうといちゃんもんをつけてくるんじゃないかと想像してしまいます。
再度言いますが、この時の寺の僧侶は武装しています。現代の平和な寺のイメージで考えないでください。
 
いつの時代も、きれいな話を掲げている人がいいことをしているとは限りません
怖いからあまり具体的には書きませんが、現在にも「○○というとても素晴らしい価値観を守る」とか「○○という差別されている弱者を助ける」という活動をしている人たちが、暴力や訴訟をチラつかせたりすることもあります。そして、乱暴なやり方を批判すると、「差別主義者」だとか、「○○全体の敵だ」とか「○○ハラスメント」と言って正義の立場から恫喝してくることは右にも左にもしばしばあります。
逆に極道だって「任侠」「仁義」を掲げていたりします。自分のことを悪党という悪党はあんまりいないのだと思います。
もしかすると悪い人たちだって内心は正義の側に立っていたいと思っているのかもしれません。しかし、行動を正すよりも自分が正義だと言い張る方が簡単ですから恫喝をするのですが。
 

 法と手続きの重要性

だから、人類は政治を発展させる中で、手続きの正しさを大切にするという道を選んできました
何が正しいのかはわからない。現在は民意で正しさを決めますが、民意で出した結論だって本当に正しいことかわからない。戦争に賛成する民意だってあるのですから。
だから憲法などの最も大切にしなければならない価値を定めた上で、手続きのルールを決めて、私達の社会が間違った方向にいかないように努力をしてきたのです。
「正しいことをやっているのだから、何をどうやっても許される」という考え方は現代では許されるものではありません。
手続きを大切にするという考え方は、こういう脅しやゆすりが渦巻く歴史の中で、人類が少しずつ進歩させてきた社会を守る方法なので、大切にしていかなければなりません。
 
では、行政学も法学も未発達なこの時代、どのようにそれを収めたかというと、やはり暴力ですね。暴力には暴力。僧兵には武士を使って対処するようになりました。ますます武士は手放せなくなります。


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