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ヤンキーとセレブの日本史 Vol.6 平安時代 その3

ヤンキーの成り上がり

寺ヤクザからの脅しもひどくなってきたので、天皇はヤンキー武士をボディガードとして雇うことにしました。
このときにボディガードになったのが三重のヤンキー平正盛・忠盛親子でした。ここから平家一門の成り上がりが始まっていきます。
そのころ白河上皇の娘が死んでしまい、悲しんだ上皇は出家して法王になったのですが、正盛はそこにシマを寄進して白河法皇に取り入りました。法王としても源氏が強くなっていたので源氏だけに頼るのは危なく、他の組とも関係を深めておかねばならないと思っていたところでした。


余談ですが、出家は仏門に入ることですが、この時代、出家しても酒や女遊びをこっそりやる人もいました。じゃなきゃセレブがわざわざ出家するわけないじゃないですか。大半は仏に帰依している立派な人アピールか死んだ後に極楽に行くことを願ってです。
現代でもセレブの間でSDGsとかダイバーシティとか流行るのとおなじですね。いつになったら私達ヤンキーはそういう人たちが信奉するダイバーシティの仲間に入れてもらえるのでしょうか。


しかし、法皇と仲良くなったとしても源氏もやはりヤンキー集団。地方でカツアゲをしたり、気に入らないやつをぶっ殺したりとやり放題な奴や、一門同士でシマの奪い合いで抗争をする奴らがいたり、段々と統制がつかなくなってきます。
特に乱暴者で国の税金を奪ったり殺しをしている源義親というヤンキーがひどすぎたので、朝廷は平正盛にヤキ入れを命令しました。
義親をぶっ殺した正盛はヒーローとして名声を上げていくのでした。
 
正盛から忠盛に代替わりしたあとも平家の勢いは増していきます。
平氏は中国(宋)との貿易をシノギにして金をためていきます。都での警察活動や瀬戸内海での海賊の征伐もするようになります。
 
しかし、どんなに功績を上げても庶民の人気が高まっても、セレブたちはヤンキーを認めることはありません。
セレブは自分たちと同じ高貴さと教養と倫理観がある者しか仲間と認めません。平家も都では田舎のヤンキーと陰口を叩かれバカにされました。だから、必死で舞や和歌を勉強してセレブの前で恥をかかないように努力しました。
平家はヤンキーのままではなく権力をもっているセレブと同じ様になろうとしました
上皇にも寄付をして、最終的には内昇殿という帝の近くにまで登庁するすることを許されました。
現代でいえば、田舎の暴走族の総長が首相官邸に出入りするようになるようなものです。
ここからいよいよヤンキーが政権の中枢に食い込んでくるのです。
  
色々なところで勢力争いが始まる
白河法皇が死んだ後も院政は続きます。
院政の前までは、天皇になったら権力を握れるので天皇になるための競争が繰り広げられていました。しかし、上皇というその上の役職ができたことで天皇になっても何もできないということもありました。逆に上皇になっても次の天皇を自分の息の掛かった親族にできなければ院政ができないというパターンもあります。
その両方のパターンで冷や飯を食らったのが崇徳上皇。天皇の時代も院政をされ、上皇になってからも院政ができませんでした。
 
同時に藤原家でも権力争いが起きています。
藤原忠道と頼長という兄弟(異母兄弟)のどちらが、藤原一家の組長になるか揉めていました。藤原はセレブなんで抗争のような下品なことはせず、政治工作で頼長が勝ったのですが、その頼長はかなり過激な人物で、遅刻しただけで家を燃やしたり、気に入らないやつを殺したりとかなりみんなに嫌われていました。
頼長を嫌ったやつらはみんな天皇(近衛天皇)にチクりました。近衛天皇も悪口ばかり聞くので頼長が嫌いになります。
 
そういう流れで、天皇から遠ざけられた頼長は冷や飯を食っていた崇徳上皇に近づき仲良くなっていきます。
そんな中、実際の権力者であった鳥羽法王が死にます。
 
崇徳上皇&頼長は、天皇(後白河天皇)&と忠道(頼長と藤原家の跡目を争った兄)と戦うことになります。上皇と天皇も兄弟同士。肉親同士の戦いです。
戦争するから暴力団が必要です。それぞれの陣営にも平氏と源氏のヤンキーが入ってきます。平氏と源氏もそれぞれで跡目争いがあり、平氏も源氏も肉親の戦いになりました。
 
結果はたった4時間で決します。崇徳上皇の陣営は、上皇の軍ともあろうものが、夜討や焼き討ちなど仁義もないような手は使えない、正々堂々と戦うと構えていました。ところが、後白河天皇軍のヤンキー源氏が夜打してきて、となりの屋敷に放火したせいですぐに後白河天皇軍の勝ちが決まりました(保元の乱)
崇徳上皇は島流しにされました。そして、ヤンキーの源氏と平氏は戦の主役であったにも関わらず、敵方に分かれて戦った肉親を自分の手で処刑するという過酷な命令を出されました。
ヤンキーに頼らなければ戦争ができない時代、ヤンキーを大事にしなければ、しっぺ返しが返ってくることは目に見えています。こうして徐々にヤンキー中心の時代に変わっていくのです。
 
抗争の中心がヤンキーの権力争いに変わる
保元の乱までは、セレブの抗争にヤンキーが駆り出されるというものでしたが、ここからはヤンキーが抗争の主役になっていきます。
 
保元の乱の後、平忠盛の息子の平清盛が平家の組長になりました。清盛は後白河上皇と仲良しだった信西という坊主と組んで勢いをましていきました。信西は上皇との仲良しパワーで好き勝手やっています。
 
しかし、上皇のお気に入りは他にも藤原信頼という男がいます。こいつは信西のことが嫌いです。信西が嫌いなやつらがこの信頼のところに集まってきます。源氏もそこに乗ってきます。そして、清盛が旅行にでかけている間に皆で信西をぶっ殺してしまいました。
ヤンキー源氏は、後白河上皇のところに行って信西が裏切ろうとしていて危ないといって、連れ去って幽閉してしまいます。天皇も一緒に拉致します。
 
旅先で抗争を聞いて戻ってきた平清盛はブチ切れます。
信頼のことを嫌いなセレブたちと作戦を練って、一旦は信頼の味方のふりをしながら、天皇と上皇の身柄を確保して、天皇に信頼をぶっ殺せと命令を出してもらいます
 
こうして平氏と源氏の抗争が始まりますが、勝ったのは平氏。信頼はぶっ殺されます。源氏も皆殺しにされるのですが、源氏の組長義朝の子どもたちは幼かったこともあり清盛の継母がかわいそうすぎると懇願するので、伊豆の田舎に流すことで許してあげることにしました。この子供が源頼朝で平家を滅ぼし鎌倉幕府を作ることになるのです。
  

ヤクザ大臣の経済改革

こうして、国内の暴力で最強を示した平清盛は権力も手に入れていきます
ヤンキーは教養がないとバカにしてみても、逆らえばぶっ殺されるのですから、清盛に権力が集まるのは自然なことです。
暴力を手放したセレブたちは、最後には暴力を持っていないことで権力を手放すことになり、ここから900年近く現代になるまでセレブのターンは戻ってきません
 
清盛は中国(宋)との貿易で財産を築き、上皇や天皇にも寄付をしたり、娘を天皇家や藤原家と結婚させ、地位を安定させていきました。成り上がりだからこそ、もともとの権力者に気を遣って嫌われないようにします。
 
中国との貿易(日宋貿易)では、日本の刀剣や火薬の原料となる硫黄、金銀銅などが輸出されました。
そして、宋からは銅銭が輸入され、これが広がることで日本でも貨幣経済が広がったのです。これまでも何度も朝廷は貨幣を導入しようとしてきましたが、うまくいきませんでした。銅が不足して十分な質と量を供給できなかったので、誰も信用せず使いたがりませんでした。そこに質の良い中国製の銅銭がたくさん流れてきて皆が使うようになります(中国ではこの頃紙幣を使い始めたので銅銭があまりがちでした)。
それまでは米や布を使って交換していましたが、米や布はかさばるし、重いし、劣化するし、米不足とかで少なくなれば取引に使う分が足りなくなるなど、ものの交換には不便なものでした。交換の手段がお金になることで経済が回りやすくなります。
 
高く売れるものを作って、それが効率よく流通することを通じて、国の経済を強めていくというこれまでの日本にはなかった野心的な考えです。
 
清盛は最終的には「太政大臣」という国の最高職に上り詰めました。ヤクザの組長が総理大臣になるようなものです。

平家滅びる

しかし、平家は滅んでしまいます。
清盛の力が強くなるにつれ、段々と後白河法皇との関係も悪くなってきて、ついに法王は飲み会で「清盛やっちゃおうか?」とふざけて言ってしまいました。チクりでそれを聞いた清盛は参加者どもをぶっ殺したり島流しにします。さすがに法王には手出しをしませんでしたが。(この陰謀は清盛が法王派の力を削ぐために絵図を書いたという説もあります)
 
そして、清盛は天皇と結婚した娘が子供を生むと、後白河法王を追い出して自分の孫を天皇につけました(安徳天皇)
平家の一門は調子に乗って横暴なことをしまくったので、不満を持つ人達が増えてきます。後白河法皇の息子の以仁王もブチ切れていて、全国にいる源氏のヤンキー達に平氏を討つように声をかけました。以仁王は計画がばれて平氏にぶっ殺されますが、冷や飯を食っていた源氏ヤンキーたちが立ち上がります
 
戦争の途中で清盛は病気で死にました。
最後には、山口県と福岡県の間の壇ノ浦という海の上で戦い平氏は負けてしまいます。
清盛の妻は孫の安徳天皇と三種の神器を持って一緒に海に飛び込んで死にました。
そして、ここから源氏の時代になります。
 
平安時代半ばまではセレブがヤンキーを使う時代、平家の時代はヤンキーがセレブ化して統治する時代、そしてここからヤンキーがヤンキーのまま統治する鎌倉時代が始まります。
 

平家は調子に乗っていたから滅びたのか?

平氏は調子に乗って「平氏にあらずんば人にあらず」みたいなことまで言っていました。平氏でなければ人間じゃねーからという意味です(これを言ったのは清盛ではなく、その取り巻きです)。
 
平氏はヤンキーなのに舐められないようにセレブのマネをしているうちに、だんだんとセレブのような考え方に変わってきてしまいました。
 
最終的に平家は滅びます。平家物語では、「驕れる者は久しからず」というふうに平家のおごりが滅びにつながったというふうに描かれます。調子にのっていたところもあると思いますが、調子に乗っていただけなら平安貴族の方がもっと上です。摂関政治のピークで一番の功績が「この世をばわがよとぞ思う望月の欠けたる事をなしと思えば」のポエムを読んだ藤原道長なんてもっと調子に乗っていたのではないでしょうか。
 
では、平家はなんでこんなに嫌われたのでしょうか。
昔のイメージでは、調子に乗った平家が悪者で、それを倒して幕府を開いた源氏が正義というような価値観もありましたが、近年の研究では平清盛は海外との交易を目指したグローバルな視点を持った統治者という評価がでてきているようです。
そりゃ、勝った源氏の方は自分たちの正しさを証明するために負けた平氏のことをボロクソに書くに決まっていますから、源氏の息のかかった資料だけでは正確ではありません。
 
いつの世も揉め事の原因はシノギです。平氏の貿易というシノギはヤンキーにもセレブにもいいことがありませんでした。
田舎の田畑ばかり抱えている貴族やヤンキー武士たちのシノギは農民からチューチュー吸い取ることです。そんなやつらが先進国の中国を喜ばせることができる輸出品を作れるわけないです。となると貿易を進めてもセレブにも田舎ヤンキーにもメリットは何もない。平氏の一人勝ちです
 
要はセレブからもヤンキーからも嫌われたからです。
ヤンキーにもセレブにもそれぞれの世界があります。どちらも自分の所属しているムラのルールに従って生きていく必要があります。新しいことをするときに、誰かのシノギに迷惑をかけるようなことなどやってはムラの中で生きていけなくなります。
今でも田舎でも大企業でも新しいことをするのは嫌われます。
 
田舎では誰かに新たな負担をかけたり、やり方を変えさせることは強烈に拒否されますし(正確には田舎だけではなくて都市にもPTAとか田舎以上に古い組織もあります。私はPTA役員をやったときに学校との連絡をいちいち学校行って紙を印刷して渡す方式からメールに変えようと提案したら幹部5人に呼び出され囲まれて「卑怯だ」「皆が効率化したたがってると思うな」となじられた経験があります。2020年代の東京で体験した本当の話ですよ。)。
古い大企業にもこれまでにやってきたことを否定する起案を怒る人もいますし、「KPIが」とか言って、今いる人が分かるレベルに定量化できる判断指標がないかぎり話が進まないことなどもよくある話です。
 
ヤンキーとかセレブとか関係なく、自分のいるムラに生殺与奪を握られると社会全体のことよりも自分のムラの方が大切になるというのは誰にも共通することです。
だから、ヤンキーにもセレブにもためにならない国のデザインをした平氏よりも、少なくともヤンキーの味方をした源氏の方が支持されることになったのではないでしょうか。
平家が驕っていたというのは、ヤンキーからもセレブからも自分たちが軽んじられていたと思われていた裏返しでもあるのではないでしょう。
 
もし平家が政権を担い続けていたら、日本はもっと海外との交易を続け今とは違う形になっていたかもしれませんが、そうならなかったのは、平家以外には支持する人が誰もいなかったからでしょう。しかも「平家にあらずんば人にあらず」とか言っちゃう取り巻きがいたらその支持を広げるのは難しかったのでしょう。
 
 

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