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認知症の方への対応に、力不足を感じている話

ここ数日、ものすごく自分の力不足を感じています。

原因は先日つぶやいた、これです。

立場の違い。

そう言われると、もう議論の余地が失われてしまいます。

その言葉が意味するところは、

「もう話し合う気はないよ」

だからです。


相手にそう言わせてしまう要因は、信頼関係の希薄さにあるんだと思います。


議論をしたところで、何かを得られる期待感を感じてもらえていない、と思われているのでしょう。


それは、今までの成功体験の乏しさによるのだと思います。

これは、リハビリと一緒なのかもしれません。

一緒にやって、あまりうまくいったことのないセラピストには、患者さんも期待しなくなるし、いずれ拒否したり、しますよね。


そういうことなんだと思います。


そして、身体拘束は容易に「成功体験」を作りだせます。


聞いた言葉で印象的だったのは

「とにかく、夜は転ばせないことに必死なのよ」

という言葉。


これは当然の考えですし、もちろん必要なことで、口を挟む余地はありません。


そして、これに対して身体拘束は、すごく直接的に結果を出してくれます。


動けなくすれば、転びません。


問題、解決です。



それに対し、自分は、何の結果ももたらせていません。


話を聞いて情報収取したり、いろいろ提案はしてくるくせに、何の結果も出ていません。

「これでは駄目だった」が積み重なるばかり。


後ろめたさはありつつも、結果が得られる方法と。

結果が出ず、リスクのある状態が続く方法。


どちらを選ぶかは、自明の理ですよね。


でも。


納得できないんです。

実力もないくせに、何もできていないくせに、納得できないんです。


業務として考えたら、もしかしたら、それしかないでしょ、っていう考えの
方も、いると思います。

人手が足りない。

設備が足りない。

物理的に無理。

それぞれ、理由としてはごもっとも。


仕方のないことのように思います。


でも。


いつか将来、自分の親が。家族が。友人が。


もしかしたら、自分が。


もしその状態になっていたら。


今、これを「仕方ない」と諦めた自分を、その時どう思うんだろう?


「仕方のないことだから、仕方がないよね」


と、割り切れるだろうか?


そう思うと、やっぱり、納得しちゃ、いけないように思うんです。



まずは、議論をしながら成功体験を作り、共有すること。

その議論をするために、チームメンバーに看護師さんが必要だと思っているのです。

そもそも、認知症ケアに看護師さんの視点が必要なのは、今さら言うまでもないことですし。



あー、なんか書いてちょっとスッキリしました。

1人で悶々としていても、精神衛生上よくないですね。


最後まで読んで頂き、ありがとうございました!

少しでも臨床のヒントになる投稿をしていきたいと思っています。 サポートして頂けると非常に励みになります!