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国立医学部学士編入学顛末記~21年目

ほぼ一年ぶり以上の更新ですが、この間周囲を取り巻く環境がSARS-CoV-2の影響で凄まじく変化してしまいました。今は臨床精神科医として日常診療に明け暮れる日々ですが、丁度二十年前に基礎医学研究から臨床医学に移ることを決心したことを最近しみじみ思い返すことがあり、徒然ながら仕事で忙殺される日々の気分転換代わりに自分の体験を記憶を辿り、ちょびっと書いていこうと思います。試験からもう20年も経っているのでこれから国立医学部学士編入学を考えておられる方に有益な情報というのは多分ないとは思いますが、20年以上経ってこういう形で働いてる臨床の医師もおるんやね、くらいの緩さで、もしご興味ありましたら。

1.医学部学士編入を決意

当時、ぼくは北大大学院医学研究科の博士課程に在籍して細胞生物学分野で基礎医学研究を行っていました。その間、研究室が属していた医学部附属の旧癌研究施設と旧免疫科学研究所が併せて改組となり、遺伝子病制御研究所という名称に変わりました。少年時代、元々身内が癌の終末で苦悶のうちに死んでいくさまを目の当たりにして、以後基礎医学研究者の道を志していたので、研究の毎日は、正直あまり上手くいかないながらも、スタッフの方々も温かく、サイエンスに存分に浸れる環境で充実していました。

ぼくはもうその頃には学生結婚してまして、翌春にはお腹の子どもも生まれる予定でした(早いもんで、今はその子が医学生です)。しかし、博士課程3年次在籍で、その頃から大学院重点化政策、ポスドク一万化計画後の行く末は現実極めて厳しいと認識していました。サイエンティストになるのは長らくの夢でしたが、ぼくが将来的にアカデミックポジションに就くのは現状では非常に困難であろうことは明らかに目に見えていました。実際、内心今後の希望に託していた学振DC2も見事に散り、妻子を持ち、経済的にも生活的にも果たしてこのままの進路でいいか煩悶する日々が続いていました(畢竟小生の研究実力がないことが全ての因です)。

偶々、その頃からメディカルスクール構想が議論され、全国の幾つかの国立大学医学部を中心に2年次後期/3年次学士編入学の制度が始まり、受験科目も主に生命科学と英語が主ですから、数年来プロになるべく修行していた身としては、たとえ倍率が数十倍以上になろうとも、これはきっといけるかな?と思いました。

連れ合いとも今後をよく話し合いまして、準備期間は半年のみ、挑戦はワンシーズンだけの約束で、合格後は医学部学士編入学試験を受けて臨床医学に転向することにしました。自身の性格から、研究者の自分の人生より一臨床医の人生の方がリアリティを以って想像出来たというのが一番ですが。

2.学士のない学士編入学?

医学部学士編入学受験を決意したのはいいですが、自分は大学院博士課程に在籍していながら、実は学士号を持っていないというちょっとヘンテコりんな立場でした。博士前期課程で研究していた奈良先端科学技術大学院大学は自分の大学院入学を飛び入学で認めてくれたので、学部を退学扱いで大学院修士を修了していたからです。

そんな訳で、医学部学士受験の最初は受験資格の確認から始まりました。当時いた北大は丁度学士編入が始まったばかりでしたが、修士号があっても学士がないのは規則にないからと瞬殺で受験資格却下、金沢大学の教務の方に幾度か問い合わせるに至っては、

「そんな学生(学部退学院卒)が日本に存在する筈がない。ふざけるのも大概にして欲しい」

というけんもほろろの対応で、そもそも受験すること自体が前途多難に思われました(「いや、ここにおりますけど」と詰られながら心で幾度反芻したか、、)。しかし、棄てる神あれば拾う神あり、幾つかの大学に問い合わせたところ、わざわざ受験規則を変更してまで対応して下さる大学も幾つかあったり、「大学評価・学位授与機構」で学位取得見込みを条件に受験を認めて下さる大学もあり、結局全国10校の医学部で受験が認めて貰えました。

初回実施時、受験倍率が169倍(!!!!)にもなって間もない「温泉入試(宿泊受験面接)」で有名になった群馬大医学部を含め、どこも受験倍率数十倍で最終合格が宝くじみたいな入試の戦いが始まりました。ちなみに大学評価・学位授与機構の存在はその時まで全く知りませんでした(厳密には大学とは違う防衛大学「校」とか気象大学「校」もここから学位記が出されます)。

3.「一円玉は四角である」ーこの事実から将来医師、医学研究者を目指す貴方の将来像を論ぜよ。

国立医学部の学士編入試験はどこも大抵書類審査、筆記学科試験、面接小論文と3次試験まであって、最低でも2回は現地に受験に行かなくてはならなりません。書類選考から筆記試験、面接は春から夏に当時集中していて、非常に受験倍率が高いため、一般受験と比較して複数受験できるメリットがあるとはいえ、北海道から九州まで慌しく移動しなくてはなりません。自分の受験(させて貰えた)大学を率直に書くと、北から、

旭川医大、弘前大、群馬大、富山医薬大、浜松医大、岡山大、山口大、大分医大、長崎大、鹿児島大

の計10大学でした。丁度願書を出す時に、奈良先端大時代の研究室で一緒にやっていた研究が神経科学でも世界トップジャーナルのnature neuroscience誌に掲載されたので(修士論文もほぼ全部この内容でした)、少しは下駄を履かせて貰えるかな?と内心思いつつ、山口大、長崎大は書類落ち。競争の厳しさを痛感しましたが、書類が通過した大学では学科、面接、小論文は全力で臨みました(女房子ども持ちで背水の陣ワンチャンスという事情もあり)。

試験で印象的だったのは、25倍の倍率で125名中5名合格の浜松医大で「生命科学」が受験範囲の筈が、当時まさかの大学レベルの物理化学てんこ盛り。「いやいや、これは聞いてないです」と不合格を確信したらまさかの学科通過。小論文では

「一円玉は四角である」ーこの事実から将来医師、医学研究者を目指す貴方の将来像を800字以内で論ぜよ(記憶の彼方)。

という禅問答のような主題で、面接も超絶の圧迫面接で、「国費で君を医師にするのは無駄ではないか?」という究極の最後通告まで突きつけられ、面接後に食べた中華屋さんの青椒肉絲とスープの味までほろ苦くニューロンに保存されています。

そんなやかはありましたが、最終面接前の大分医大でただ一人別室に呼ばれ、「これは合格したら、の仮定の話です。学士の学位は合格後大丈夫ですか?あくまで仮定ですが、ご結婚されているので、合格したら授業料免除申請は出しますか?あくまで合格したら、の仮定です」と教務の方から仮定のお話を沢山されて、「???」と思ったり、修士のままでも受験可能と受験資格の学則まで変えてくれた旭川医大はもう合格が前提のように面接が進むので、まぁどこかにはひっかかるかな、という手応えでした。

4.最終結果ー学士は後でした、の学士入学

途中経過でしたが、半年だけ準備して夏の時点での自分の合格状況は下記でした。連れ合いの意見で、大分医大は遠いから却下、浜松医大は東海地震が怖いから却下、他本州大学は北海道じゃないから却下、旭川はおばぁちゃんがいて土地に慣れているからOK、という完全に連れ合いの意見に従った進路選択でした。入学手続きのため結果が出たばかりの群馬大を辞退した時、群馬を蹴って旭川医大に進学するというのはどうか?と教務の方から言われてしまいましたが、医学部の「格」というより家族の希望する現実的な生活を選択しました。本命は岡山でしたが、この選択に今でも後悔はありません。

ちなみに、入学後旭川医大に成績開示したら自分が1位でした。あれだけ圧迫面接を喰らって、相当メンタルがぼろ雑巾のように疲弊した浜松医大の第一回学士編入学で125人の志願者の中から自分を最終合格に選んでくれていたのは素直に驚きでした。禅問答的小論文課題にも圧迫面接にも、自分なりにはベストを尽くしつもりでしたが。

結果ー旭川医大(2次合格通過、最終合格)、大分医大(2次合格、最終合格)、浜松医大(2次合格、最終合格)、群馬大(2次合格、最終面接辞退)、岡山大・富山医薬大・弘前大(1次合格、以後合格辞退)、長崎大・山口大(1次不合格)、鹿児島大(2次不合格)

学士がなくても入学OKの大学はありましたが、学士号取得見込みは受験の時に受験させていただいた大学とのお約束なので、これはしっかり本郷の大学の法文2号館で試験を受けて取得しました。ですので、最終合格、入学手続きを終えてから学士号の学位記が手元に届くという、なんだかへんてこりんな学士(修士)編入学となりました。

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5.そして今に至ります

途中編入とはいえ、長く感じられた医学生時代を経て、もう大学組織とは縁が切りたかったので、自分は初期臨床研修後、お世話になった基幹総合病院で現在のトレーニングを受けました。気がつけばはや医師15年目です(この業界は年次がよく問われます。ぼくはあんまり同意しませんが)。芥川賞の南木佳士の『医学生』の回顧もその頃やったかなぁ、、、と自分も越し方を振り返ってしまいます。自分も先生同じく市中病院派ですが。

自分がどれだけ患者さんの役に立てているか、日々自問自答の毎日ですが、基礎研究時代に細胞内シグナル伝達と細胞生物学、遺伝学、生化学、神経科学の論文を読み日々実験していた体験は何故か不思議と今に活きています。人生万事塞翁が馬です。現在猖獗を極めているCOVID-19に対する知識のベースも、これらのおかげで理解度がぐんと深まっているとこれまでの高等教育に感謝しています。

原点に立ち返り、COVID-19の第6波が眼前の今、今一度手綱を引き締めて仕事に向かおうと思います。

長々書き連ねてしまいましたが、ここまでお読み下さり本当に有り難うございます。もし受験生の方にこの文章が目に留まったらーどうかそのまま真っ直ぐ自分の決めた道をお進み下さい。喩、行く末が地獄に思えても。

本当に有り難うございました。どうかお達者で。私も頑健息災で戦います。





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