【医学部受験】凡人が医学部を目指し、破れた話
はじめまして、saiと申します!
現在医学部の3年生です。一度社会人を経験し、1年間の受験期間を経て国立大学の医学部に合格しました。
実は現役時にも医学部を目指しており、一度受験に失敗している経験があります。今回はそのときの話をしようと思います。
中学入学〜卒業まで
中学生の頃の自分はとても無気力な生徒でした。毎日のオンラインゲームが唯一の楽しみで、学校がある日でも夜中の3時くらいまでやっていました。大体1日6時間くらいはやっていたと思います。当然睡眠時間が足りなくなるので常に眠たく、授業中も寝はしないもののぼーっと過ごしていました。
勉強面は小学校4年生の頃から公文式をやっていたこともあり、中学校の英語や数学はまだついていけていました。実力テストではいつも300/500点くらいで、学年順位で言えば80/200位くらいだったと思います。進学校に入学するには一歩届かないくらいの点数でした。
高校受験では県立高校を受験せず、私立高校に単願で決めました。理由は高校受験から早く逃げたかったからです。親には叱られました。
高校入学〜卒業まで
高校入学して間も無く、自分の人生にとって非常に悲しく、そして一生忘れられない出来事が起こりました。
5月下旬のことです。
私は父親と一緒に電気屋さんに来ていました。携帯電話を買って貰っていなかった私は、高校に入学したら代わりにパソコンを買ってもらう予定でした。
無事パソコンを買ってもらった私は、「これでもっとゲームができるぞ」とルンルンとした気持ちで父親の車で帰路につきました。
父親の様子がおかしくなったのは帰りの運転中のことです。突然頭が痛いと言い始め、運転していた車をコンビニに止めました。
父親の様子を見ると、頭を押さえ非常に苦しそうでした。こんな父親の姿を見たことがない私は慌てて、「コンビニで頭痛薬を買ってこようか?」と言いました。しかし父親は「いらない」と言い、車の外に出ていってしまいました。父親は駐車場の柵にもたれかかり、下を向いてしばらく何かをしているようでした。
そして、突然倒れました。
驚いた私は急いで車から降り、父親の元へ駆け寄りました。足元を見ると、嘔吐した形跡があり、下を向いていたのはこのためだったと気づきました。
すぐに110番をして救急隊に連絡しましたが、うまく位置が伝わらず、この時点で3分くらい経過していたと思います。
コンビニに入り、父親が倒れたことを店員に告げるとすぐに外に出てきてくれました。店員と父親の様子を確認し、ここで父親が普通の呼吸をしていないことに気づきました。父親はいびきのような呼吸をしていました。後になって知ったのですが、これは"死戦期呼吸"とよばれる脳卒中の患者によく見られる呼吸でした。
父親の口に手を入れ、気道を確保するためなんとか嘔吐物を取り出そうとしました。同時に、店員さんが胸骨圧迫をしてくれていました。ここまででおよそ7分ほど経過していました。
このとき時間がかかってしまったことをいまだに後悔しています。もっと早く処置できていれば結果は変わっていたかもしれないと思うからです。
まもなく救急車が到着し、救命士の方にバトンタッチすることができました。しかし、中々搬送先の病院が見つからず、15分くらい経って隣の市の総合病院に搬送が決まりました。
このとき、初めて母親に電話をしました。母親はひどく慌て、すぐに病院に向かうから救急車に乗って病院に向かってくれと伝えられました。
病院に着くとすでに母親は到着してり、とても焦った様子でストレッチャーに乗った父親に話しかけていました。母親の掛け声に父親もわずかに反応しているようでした。
その後すぐ検査、緊急手術となり、医師からくも膜下出血を起こしていたことを伝えられました。
思い返せばその日の朝、父親はしきりに「首の後ろが痛い」と言っていたのです。それはくも膜下出血の初期症状によく見られるものでした。
親や兄弟は、「朝そのことに気づき、出かけるのを止めていれば…」と後悔の念にかられていました。
一方、集まった祖父母や親戚からは「パソコンなんか買いに行くからこんなことになるんだ」とも言われました。私にとっては「自分のせいで父親は倒れたんだ」と言われているように感じ、非常に辛かったです。実際、自分のわがままのせいでこうなったとも言い切れないため、返す言葉はありませんでした。
それから一週間ほど経ち、医師から脳死状態であると告げられました。今後、脳が元の状態に戻ることはないと。
それでも生きていればいいと思っていました。ひげや髪の毛は伸びるし、会話は出来なくても父親はちゃんと生きているんだという実感がありました。定期的に病室を訪れて父親の顔を見る生活を続けようと思っていました。
しかし、そんな考えも打ち砕かれることになるのは6月に入ってすぐのことでした。
昼頃に病院から父親の容体が悪化したと連絡がありました。急いで病院に向かうと、いつもとは違う病室に父親は移されていました。
「あぁ、きっと今日が山場なんだろうな」と、高校生ながら感じました。
夜になるにつれてモニターの警告音の鳴る回数が増えていきました。その度に看護師さんが父親の体に付いた電極を付け直していたのを覚えています。するとその直後だけが脈拍が回復し、「あぁ、まだ生きていてくれるんだ」と少し安心しました。
状態が悪化すると同時に胃に入れていた栄養剤が口から逆流することが多くなりました。これが自分にとって本当に怖かったです。よく知っている父親がだんだんと人間でなくなっていくようでした。
夜中の3時を回ったとき、ついに脈が測れないくらいの状況になりました。
当直の医師が病室にやってきて死亡確認をしました。
「ご臨終です。」
母親、兄弟、親戚、みな泣いていました。
「このときの瞬間を一生忘れない」
自分の中でそう固く決意しました。
それからすぐ通夜となり、葬儀の準備でバタバタとして父親の死にゆっくりと向き合う暇はありませんでした。
葬儀の当日のことはよく覚えています。中学校や高校の同級生も駆けつけてくれました。中学や高校の担任も葬儀に来てくださり、みな「大丈夫か」と声をかけてくれました。しかし、当時の自分はまだ父親が亡くなったことに現実味がなく「大丈夫です」と淡々と答えていました。
午前中の葬儀が終わり、火葬の時間となりました。
父親の入った棺に親戚が一人一人献花をしていきました。みな感謝の言葉をかけながら静かに泣いていました。私も「お世話になりました、今までありがとう」と声をかけ、菊の花を棺の中に入れました。
献花も終わり、いよいよ火葬炉に父親を入れる時間になったときです。
火葬をすればもう二度と、人の形をした父親を見ることができなくなるという現実に襲われました。
他の兄弟、母親も同じだったのでしょう。みな棺に取り付き泣き叫んでいました。心の中でなんとか父親を遺体の形でいいから残して欲しいと叫んでいました。
私はこのときの母親の悲痛な姿がいまだに忘れられません。
父と母は子供の私から見ても仲の良い夫婦でした。まだ40半ばで、嫁ぎ先に一人残される母親が本当に気の毒でなりませんでした。
葬儀のあと二週間ほどして高校生活に復帰するのですが、自分はさらに無気力な生徒になっていきました。当時の自分には父親の死は大きすぎて、到底受け入れることはできませんでした。
この頃から大学を卒業するまで父親のことを思い出さない日はなかったです。
自分がもっと早く処置できていれば父親は助かったのではないか。父親の死の責任の一端は自分にあると思っていました。
この頃から無意識に医者という仕事に興味が向いていたのかもしれません。しかし、それを勉学に向けるということはありませんでした。
そのまま高校生活を過ごし、前期・後期の国立大学はともに落ちました。私立大学はMARCHとある理系大学を受験しましたが、MARCHは全て落ち、某理系大学は1学科だけ合格をもらえました。
結果として唯一受かったその大学に進学し、他県での一人暮らしがスタートしました。
大学入学〜休学まで
大学に入学し新しい生活をスタートさせました。友達も何人かできて、都会に遊びに行ったり、友達の家でゲームをしたりとそれなりに楽しい大学生活を送っていました。
しかし、自分の中で何かもやもやとしたものがありました。自分の人生はこのままでいいのか。父親が亡くなったときの決意を何かの形で果たさなくて良いのか。
ちょうど転機が来たのは1年生の5月でした。燻っていた私は2chの学歴掲示板に入り浸っていました。
”ニートから2年で国立医学部合格したけど質問ある?”
たしかこんな感じの名前のスレッドでした。スレ主は高校を中退後、通信制高校に通いつつ鳶職として働き、医学部受験を決意してからわずか2年で国立の医学部に合格するという猛者でした。しかも独学で。
これを読んだ時、自分の中に衝撃が走りました。
「自分よりずっと頭の悪い人が2年で合格…?」
自分でもいけるかもしれない…。
そんな考えが頭をよぎりました。
このスレ主はとても親切な方で、自分がどのような参考書を使ったか、どのように勉強を進めていったかを事細かに書いていってくれました。
自分は夢中でスレ主の書いた内容をメモしていきました。この人と同じことをすれば自分でも医学部に合格できる(もちろん、そんな甘いことではないと思い知ることになるのですが…)。生まれて初めて何かを真剣にやってみようと思った瞬間でした。
それからは時間を見つけては大学の図書館に篭るようになりました。友人から遊びに誘われても断り、図書館で参考書を開くことが多くなりました。
これまで勉強をしてこなかった私は、何時間も勉強することがこんなに苦痛なのかと思い知りました。そして、勉強をするほど自分がどれほど怠けていたのか、周りの秀才たちがどれだけ血の滲むような努力をしていたかを知ることになりました。
自分もそんな努力のできる人間になりたい。
そして医師となり、何もできなかった悔しさを晴らしたい。
いつしかそんな思いで勉強をするようになりました。
母親にもう一度受験をしたいと打ち明けたのは6月下旬のことだったと思います。
もちろん最初は反対されました。しかし、医学部に入りたいということを伝えると渋々「しょうがない」と許してくれました。もちろん、母親は受かるとは思っていなかったようですが。
大変だったのは親戚の方です。自分が再受験を考えていることが祖父母に伝わり、叔父や叔母にまで広がってしまいました。
祖父母は自分に再受験をしてほしくなかったようで、私に諦めさせるように叔父に働きかけていました。
何度も叔父から電話がかかってきました。「医学部はそんな簡単ではない」「救命士や放射線技師になればいいじゃないか」と説得されました。
今考えれば叔父の言っていることはもっともでしたが、当時の自分は頑として意志を曲げませんでした。
結局7月には休学届を出し、アパートを引き払って実家での宅浪生活が始まりました。
浪人〜受験失敗まで
実家に帰ってきてから、予備校に行くのか、宅浪にするのかを母親に聞かれました。
自分は宅浪を選びました。例のスレ主が宅浪で医学部に合格していたからです。
また、いったい自分は自力でどこまでできるのか、自分の限界を試してみたいという思いもあったからでした。
同時に母親と約束もしました。今年のセンター試験で80%を取れなければ受験は今年で諦める。もし超えることができれば2浪目まで許すというものでした。
それから毎日家と図書館を行き来する日々が始まりました。
①地獄の日々
宅浪での生活は自分にとって地獄でした。
今思い返してみても、このときほどつらかった時期はないと思うほどです。
勉強の習慣がなかった私は、長時間椅子に座っているということが苦痛でした。すぐに勉強以外のことに気が散ってしまい、長く集中することができませんでした。
そのため、これを機に持っていたゲームは全て捨てました。また、テレビや音楽も一切観ない、聴かないようにしました。自分にとって娯楽となるものは全て捨てようと覚悟を決めました。
また、交友関係は勉強の邪魔になると思い、当時持っていた携帯電話も解約しました。これによって中学や高校の友人との関係は全て断たれました。友人関係がなくなったことで精神的に孤独になり、次第に追い詰められていく原因となりました。
それでも集中できなかったときなどは、椅子にロープで自分をくくりつけたりしていました。
8月になり全統マーク模試を受験しました。
現役時代は偏差値50がやっとでしたが、この回はたしか偏差値で50後半を取ることができました。
自分で努力したことが結果に出るというのはこんなに嬉しいんだと感じたことを覚えています。しかし、それと同時にこのままのペースでは目標のセンター80%には届かないという焦りもありました。そして当然志望校判定も全てE判定でした。
それから勉強を進めていくうちに、次第に不眠症に悩み始めるようになりました。これは受験が終了するまで続くことになり、その後の再受験時も悩まされることになります。
同時に、人と話す機会がなさすぎて声を発することがうまくできなくなりました。もともと社交的な性格ではなかったのですが、コンビニの店員との短い会話すらできなくなるほどでした。
また、当時の自分は毎日必ず10時間勉強することをノルマにしており、このノルマの時間を終わらせることに必死で肝心の中身が伴っていなかった気がします。
ストレスは他にもありました。それは家族の言動です。家族全員私が医学部に合格するなど思っておらず、姉からは「このままニートになる」と言われ、母親からも煙たがられていました。家に居場所などなく、まさに四面楚歌という感じで日々過ごしていました(もちろん、姉や母親のことを恨んではいません)。
②独学の大変さ
自分は予備校に行かず宅浪をしていたわけですが、困ったのがどう勉強していいかわからないということです。
当時は今のように武田塾の参考書ルートがあるわけでもなく、勉強に関する本も合格体験記程度で、勉強法自体にフォーカスした書籍はありませんでした。
そのため、2chで見た勉強法をベースに自力で勉強方法を編み出していくしかありませんでした。
実際、一番初めに買った参考書は標準問題精講でした(医学部受験をする方なら聞いたことがある問題集だと思います。初学者がやる本ではないです)。当時の自分は”標準”と付いているから簡単なんだろうと思って購入したのですが、家に帰ってから開いてみてその難易度に目が飛び出るくらい驚きました。
そのくらい受験のことについて分かっていなかったので、はじめはがむしゃらに参考書を解いていました。この頃の勉強はかなり無駄が多かったように思います。
ですが進めていくうちに、自分が1日にできる勉強量や自分の学力のレベルが分かるようになってきました。同時に、人間はやった内容からどんどん忘れていく生き物だということも学びました。そこから勉強計画の必要性や復習の大切さについて気づき始め、だんだんと勉強法が確立されていきました。
勉強計画は8月くらいから立てるようになったと思います。手帳に1日のノルマと感想を書くようになったのもこの頃からです。これは再受験のときも続けました。
8月の下旬には全統記述模試があったはずですが受けていません。理由は、当時の自分は記述模試が難しい模試と考えていて、自分がまだ受けるレベルに達していないと思ったからでした。
今思うとレベルなど考えず受験しておくべきでした。ただ偏差値が低く出る現実を受け入れる覚悟がなかっただけだと思います。
独学の話に戻りますが、自分は勉強に詰まると本屋の参考書コーナーに行く癖がありました。なんとなく参考書を眺めて気になるものがあれば買ってみる。そのため、机の引き出しには買ったけど開いていない参考書が何冊もありました。これはとても良くない習慣だったと今になって思います。再受験時にはそれもあって使用する参考書は極限まで絞りました。
また、自分は図書館で勉強することが多く、勉強の休憩によく読書をしていました。しかし、そのまま読書にのめり込んでしまうことも多く、休憩時間が2時間、3時間と伸びていってしまうこともよくありました。結果として1年間で300冊くらいは読むことになりました。これも今思えば良くなかったですね。
③悩む志望校
自分が初めに志望していた大学は徳島大学と信州大学でした。なぜなら、徳島大学は二次試験が英語と数学のみであり、信州大学に至っては当時は数学のみという異例の入試科目の少なさでした。
当然そうなれば数強の人たちが受けにくるのですが、当時の自分はそこまで頭が回っていませんでした。センター試験でぶっちぎって、二次はそこそこ取ればなんとかなるだろうと思っていました。
10月になり第3回の全統マーク模試を受験しました。このときの偏差値はたしか60ちょっとでした。生まれて初めて60以上の偏差値を取ることができました。そして、初めて志望校判定でD判定を取ることができました。これは本当に嬉しかった。今まで絶対に手の届かないところにあると思っていた医学部が、ほんの少しだけ近づいたような気がしたからでした。
模試はこれ以降は受けていません。理由は受験料が高かったことと時間がもったいないと思ったからです。そのため、自分が記述模試でどの程度実力があったかは分かりませんが、今の感覚から推測するとおそらく偏差値55くらいだったと思います。
④受験失敗
センター試験本番はあっという間にやってくるもので、前日はまったく眠れませんでした。再受験のときもそうだったのですが、自分は結構プレッシャーに弱いのかもしれません。
全ての科目がうまくいってくれればなんとか80%には届くかもしれない。そんな気持ちで試験会場に入りました。
1日目は社会、国語、英語でした。社会はまずまず、国語は爆死、英語もまずまずという手応えでした。正直国語がダメだった時点で医学部受験は絶望的でした。
2日目は数学、理科でした。数学1A、2Bともに思ったより解けず、物理、化学もポロポロ落としているだろうなという感触でした。
記憶が曖昧ですがおよその自己採点がこちら。
終わった…。
来年はないなと思いました。母親と約束した80%にはまったく届かず。
ここから医学部以外の大学を探し始めました。
結果として選んだのが前期は隣県の大学、後期は地元の大学に出願しました。どちらも理学部に出願しました。
前期試験は前泊のためホテルに宿泊しました。しかし例の如くまったく眠れず、寝不足気味で試験会場に向かいました。定員が少ない大学だったにも関わらず、受験者はその5倍おり教室はぎゅうぎゅうでした。
試験は英語、数学、理科の混合問題で、過去問の手応えでは五分五分といったところでした。
しかし試験問題を開いた瞬間、自分が落ちたことを確信しました。この大学では出題範囲外と思っていた原子の分野が出題されたからです。自分はその分野を勉強していませんでした。
当時はゆとり教育の最中で、理科の最後の分野は履修範囲外とされていました。そのため、出題するか否かは各大学の判断に任せられていたのです。
後で募集要項を確認したところ、「原子核」の分野のみ出題範囲外でそれ以外の「原子」の分野は出題範囲でした。自分の詰めの甘さが出たところでした。
帰り道では落ちたことを確信しながら帰路につきました。このまま仮面先の大学に残るのは嫌だなと考えていました。
前期の合格発表ではやはり不合格。手応え通りでした。
前期試験が終わった時点で自分はかなり燃え尽きてしまいました。後期試験までの二週間ほどは1日6時間ほど勉強し、あとは寝たり本を読んだりぼーっとしたりしていました。
後期試験は地元の大学で何度も行ったこともあり、まったく緊張せず受験しました。
科目は数学と物理でした。手応え的にはどちらもまずまずで、ほぼ受かっただろうという手応えでした。
合格発表は大学が家から歩いていける距離にも関わらずネットで結果を見ました。結果は予想通り合格。
母親から2浪するのかどうか聞かれましたが、今年で辞めると伝えました。もうエネルギーは残っていないし、精神的にも限界だと感じたからでした。
結局、仮面先の大学は退学し、後期で合格した地元の国立大学に入学しました。この大学に入学したことはまったく後悔していません。サークルで色々な出会いがあったり、貴重な体験もたくさんできました。
最後に
今思えば、自分は井の中の蛙でした。初めは自分を過大評価して、2年くらいあれば医学部に合格できると考えていました。しかし、現実は甘くありませんでした。勉強すること自体のストレス、浪人という不安定な立場、受験生のレベルの高さ、これら全てを浪人前の自分は知りませんでした。浪人して初めてこれらを理解し、また何かを継続することの大変さ、自分を律することの難しさを学びました。
受験はうまくいきませんでしたが、この1年間は自分にとってかけがえのない財産です。学会の準備で何日も寝られなかった時も、仕事で身体的にも精神的にも限界を迎えた時も、再受験で毎日押し潰されそうだった時も、いつも自分を支えてくれたのは過去の頑張った自分でした。
言いたいこともまとまりませんが、これを読んでくれた人に少しでも役立つ事があれば幸いです。
使用した参考書
最後に当時自分が使った参考書を載せておきます。1周以上使ったものは太字にしてあります。(くれぐれもこんなに使わないように!!)
2022.10.4
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