見出し画像

当たり前と見返り-心の境界線(1)

当たり前と見返りの境界線

心の境界線

一人の人間、共に生活する

仲間を大切にする心💗

人間は、好かれたい認められたい、
愛されたい、人に信じてもらいたい、
信用信頼されたい、認知感謝されたい、
このようなことは、多少に関わらず、
相対する人に何らか見返りを心の中で
望み求めることの表れだと思います。

🟠相手にされたことに対し、
  人として当たり前に返す
 べきことは見返りなのか?

🟠人としての当たり前とそれに
 応えること ≒見返りを求める、
 との線引きは何処でするのか?

🟠気遣いや思い遣りに
 応える活動は見返りか?

🟠人として、社会人としても
 挨拶して当たり前と言う意識
 を持つことは見返りなのか?

🟠冠婚葬祭や祝い事など
 と言った場に、立ち会うのが
  当たり前と考えることは
  見返りを求めることなのか?

🟠感謝や礼は、手段を考えて
     伝えて当たり前と考えるは
     見返りを求めることのか?

🟠相手を無視せず自分の常識
     で応えることが当たり前と
     思うのは見返りを求めることか?


など他人の言動や態度を自分の
常識の「ものさし」で受け留めて
判断することがあります。

他者に親切・お世話をする時、
見返りを期待しない方が良い。

人から責められたくなければ、
自分も人を責めてはならない。

そう心(=頭)で理解していても、
実際に実行出来ないのが人間です。

やはり、好きな人には、
自分も好かれたいと考え願う、
見返りを求めてしまうのです。

例えば、
何かで自分のしたことで
人としての功徳が積めた、
本当に良いことが出来たと
思えれば何もその相手や周り
の人からお礼を言われたり賞賛
されずとも自分自身の気持ちが
自然と嬉しくなり満足出来ます。

人は、
最初に何らか見返りを期待すると、
相手に対し自分自身が良いことを
したと言うそのことだけのことに
満足出来なくなる結果に至り、
見返りを望んでしまうのでしょう。

何か自分自身も良いことをした時、
ついついなんらかの礼やお返し、
或いは誉められたいと言う気持ち
が心の中におこっていないかどうか、
と言うことに気を付けたいものです

社会人になり様々な対人関係で、
善し悪し(正誤)に関わらず「見返り」
と言う言葉の持つ意味を知り、
よく子供の頃に見かけた親達が
お世話になった方々に忘れずに
何らかのお返しをしていたこと
を思い出しました。

日本では、
何かをして頂いたり物品を頂いたり
するなどする時、こちらから感謝を
しなくてはならない時に古から有形
無形に関わらず、何にかのお返しを
する風習がお中元やお歳暮と言った
ことで表わします。

普通の人間は、
他人の出来ないお世話をしたり、
何らかの形ある物や物品などを
差上げたりした時無意識の内に
感謝の見返りを求めてしまいます。

例えば、
💞人に好かれたいと思うより、
  人を好きになる活動をする。

💞信頼されたいと思うより、
  先ず多者を信頼することに心掛ける

💞愛されることを求め望むより、
 自ら愛する方が幸せに近づく。

💞魅力は与えるもの、魅力を他人に
  求め、望んではならない。

💞他人にお世話や親切にする時は、
   無私の心で見返りを求めない。

💞人から批評や批判を
  されたくなければ
    人の批評・批判はしない。

💞他人から責められたくなければ、
   自分も他人を責めてはいけない。

・・・などと言えることがあります。

モノやコトのおもてなし、
お遍路さんへのお接待などの
唯一無二の日本人の心の文化を
表す心身の活動は大切にしよう。

心の文化を大切にしよう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?