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#1.5)【偉人伝】藤堂高虎 ~戦国一の世渡り上手と呼ばれた漢~【歴史から学ぶ】

時は戦国の室町時代、弘治2年1月6日(西暦1556年2月16日)、藤堂 高虎(とうどう たかとら)が生まれました。

弘治(こうじ)は、日本の元号の一つ。
天文の後、永禄の前。
1555年から1558年までの期間を指す。
この時代の天皇は後奈良天皇、正親町天皇。
室町幕府将軍は足利義輝。

出典: Wikipedia

”歴史好き”の皆様と、”歴史に興味は無いがイケメン化されてる武将好き”の皆様、オハコンバンニチワ。

我々現代人が何かを学ぼうとする時、大抵の場合は本を読む場合が多いですよね。

現代人が書いた書物や論文の大半は、著者が積み重ねてきた知識によるものです。

引用に次ぐ引用のルーツを辿っていけば、歴史、特に偉人と称されている人たちから学ぶことになるわけです。

偉人といってもあまりにも多いので、タイムリーで通じるであろう偉人を紹介したいと思います。

とはいえ、少なからず脚色はされているかと思うので、ざっくり解説にとどめておきます。

それでも学べることは多いかと思いますので、興味を持たれたらより深く調べてみてください…

戦国武将や築城、日本の歴史はハマるとおもしろいですよ~

▲参考文献

◇ 家臣を転々する藤堂高虎


近江国(滋賀県)犬上郡藤堂村の土豪(小領主)藤堂虎高の次男に生まれた高虎は、13~15歳の時に近江小谷城の浅井長政に仕えます。

元亀元年(1570)、『姉川の戦い』にわずか15歳で初陣し、奮戦する。

◆ 姉川の戦い ◆
姉川の戦い
は、戦国時代の元亀元年6月28日(西暦1570年7月30日)に近江国浅井郡姉川河原(滋賀県長浜市野村町及び三田町一帯)で、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の間で行われた合戦。
姉川の戦い」という呼称は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と呼んだ。

足利・織田勢と対立を深めた越前の朝倉義景に対し、元亀元年(1570年)4月に信長自らが率いる軍勢が越前・若狭の朝倉方勢力への侵攻を開始した。
すると織田勢の背後に本拠地を構える浅井氏が突如朝倉氏に加勢し、織田軍の背後を襲った
優位のはずの浅井・朝倉勢だったが、挟撃される危険を察知した信長勢は即座に撤退を開始し、本拠地岐阜への帰国に成功する。
(浅井・朝倉勢ってポンコツかな?いや、信長が一枚上手と信じたい笑)

織田・徳川連合軍” VS ”浅井・朝倉連合軍”
結果:織田・徳川連合軍の勝利


奇襲に失敗し、準備万端の織田・徳川連合軍の逆襲に惨敗した浅井家の被害は甚大であったが、浅井・朝倉連合軍にはまだ余力は残っており、比叡山の僧兵衆や石山本願寺の一向一揆と手を結び、織田軍と攻防戦を繰り返すも、比叡山焼き討ちなどにより浅井家は滅亡にまで追い込まれた

『姉川の戦い』で奮戦し、無事に生き残った高虎は、17歳の時に同輩を斬殺して出奔する。


これ、機動戦士ガンダム第10話「ガルマ散る」でいうところの、シャアがガルマ・ザビを裏切るエピソードに似ていてアツい展開(笑)

余談

以後、阿閉貞征、磯野員昌、織田信長の甥・信澄と次々に主君を変え、天正4年(1576)に豊臣秀吉の弟・秀長に仕えて、ようやく腰を落ち着けます。

豊臣秀長に仕え始めた頃はわずか300石と、現代で言う平社員並みの待遇だったが、数々の戦功を挙げ、1万石の城持大名に出世、さらには2万石の家臣級にまで出世する。

豊臣秀長の死後、後継者の秀保の後見時代も含めて20年以上仕えたが、秀長への忠誠心が高かったため、秀保が17歳で亡くなると高虎は出家して高野山に籠もる。

その才を惜しんだ秀長の兄である豊臣秀吉から望まれて復帰した藤堂高虎は、伊予国板島(いよのくにいたじま<現在の愛媛県宇和島市>)7万石の大名になります。


これ、機動戦士Zガンダムでいうところの、シャアが名前を偽って反連邦政府組織エゥーゴの大尉として前線に復帰しているエピソードに似ていて、これまた激アツな展開(笑)

余談

秀吉のもとでも武功を挙げて出世する中、”徳川家康”に接近し、意気投合していたとされています。

「関ヶ原の戦い」では、徳川方に付いて寝返り工作を行なうなど、裏方で勝敗の決め手となる活躍を果たし、”徳川家康”を武家の頭である征夷大将軍に就任するきっかけ作りに一役買っている。

◆ 関ヶ原の戦い ◆
1598年(慶長3年)に訪れた豊臣秀吉の死去から2年後に起きた戦。

~経緯~
天下統一を果たし、関白(天皇に代わって政務を任される立場)となった豊臣秀吉は「五大老」と「五奉行」という地位を設けたが、このグループ分け
が発端となった。
「五大老五奉行体制」
「五大老」・・・国や政治を指揮・監督する役割
 ・徳川家康:関東
 ・前田利家:北陸・加賀
 ・宇喜多秀家:備前
 ・上杉景勝:会津
 ・毛利輝元:中国
「五奉行」・・・豊臣政権を支え、治安の維持をする実務担当
 ・石田三成:行政
 ・増田長盛:建築・土木
 ・長束正家:財政
 ・浅野長政:司法
 ・前田玄以:宗教
豊臣秀吉の遺言である「秀頼を守り豊臣家に尽くすように、政略結婚はしないように」に反する行動をしていた徳川家康石田三成が反発する。
石田三成に続き、上杉景勝直江兼続も反発し、家康に1通の手紙を出した
「直江状」。
この「直江状」が家康を怒らせるきっかけとなり「関ヶ原の戦い」へ発展。
石田勢の総大将は表向きでは毛利輝元だったが、毛利輝元は指揮も参戦もしていなかったとされ、実際に指揮命令を行なっていたのは石田三成
石田三成の人望の無さと指揮官としての技量不足、また、徳川軍の寝返り工作により石田勢は開戦から約6時間であっけなく敗北する。
この徳川軍の寝返り工作に、藤堂高虎が深く関わっていたとされている。

藤堂高虎はその後、豊臣方との最後の戦いである「大坂冬の陣・夏の陣」でも徳川方に付いたことからも、徳川家の外様(親族や一門でない)でありながら”徳川家康”と深い信頼関係にあったようです。


◇「家」ではなく「人」


幾度も主君を変え、最後の戦いである「大坂冬の陣・夏の陣」では仕えていた豊臣家を裏切り徳川方へ付くなど、不忠義者や風見鶏と呼ばれ印象が悪い藤堂高虎。

高虎に先見の明があって裏切り行為に至ったとの見解もありますが、当初はそのつもりで接近したのかもしれませんが、それだけとは思えません。

長年仕えた”豊臣秀長”への忠義と”徳川家康”との信頼関係を見るに、家柄ではなく、あくまでも個人の人柄で忠誠を尽くしていたのではと思います。

◆ 天下人に言わしめた逸話
徳川家康の遺言に「死後は天海と高虎と共に眠りたい」と遺しているほどの逸話があります。
生前、家康は高虎に「死後もそなたに会いたいが、宗派が違うから難しい」と言うと、高虎は隣の部屋にいた「天海僧正」(てんかいそうじょう)のもとに行き改宗しました。
そんな高虎に家康は「死後は天海と高虎と共に眠りたい」と言い遺したとのことです。
徳川家康を奉る”日光東照宮”には、徳川家康、藤堂高虎、天海僧正の3人の像が奉られています。

この逸話から、元は高虎が豊臣家に仕えていたことを知っているはずの家康から絶大な信頼を得ていたこともあるように、いかに個人のつながりを大切にしていたかがわかると思います。

藤堂高虎の人生を振り返ると、幾度も主君を変えているため、冷徹で世渡り上手というような評価をされている印象が多いのですが、当の本人は人を見極め、気の合う人物とだけ密接に繋がっていただけのように思います。


◇ ”家柄”に忠誠を誓って敗北した漢


片や、豊臣家に忠誠を誓った真田幸村(信繁)は、秀吉亡き後の最後の戦いである「大坂冬の陣・夏の陣」では、豊臣秀頼方に付き敗北しました。

真田幸村(信繁)は、真田家が豊臣家の直臣とうこともあり、豊臣秀吉やその家臣である石田三成への恩義、幸村(信繁)の妻の父である大谷吉継の顔を立てる必要があったのかもしれませんが、秀吉の後継である秀頼には恩義があったとは思えず、無謀とも思える戦に、秀頼を守るため豊臣方へ加勢しました。

兄の真田信之は、妻が徳川家康の家臣の娘であることから徳川方へ付いており、家康より、信之を通じて寝返るよう誘いを受けていた真田幸村(真田信繁)だったが、「損得だけで豊臣方に付いた訳ではない、とっくに覚悟は決まっているのだ」と、これを拒否して豊臣方へ加勢している。

まぁ、「当時の家康が秀吉の遺言を無視して好き勝手やっていたのが許せなかった」、「以前から真田氏徳川氏が犬猿の仲」というのも理由の一つだったとは思いますが。

豊臣家に忠誠を誓った真田軍は、圧倒的戦力差であるにも関わらず、特に「大坂夏の陣」では、玉砕覚悟で敵陣営に突っ込んで行き徳川軍を追い詰め、家康に2度も自害を覚悟させるほどに猛進したとされます。

残念ながら豊臣勢の連携がうまくいかず、結果、守るべき秀頼もろとも玉砕してしまいました。

決して真田幸村(信繁)をディスっているわけではありませんが、幾度も苦しめた徳川家康から武勲を評価されており、和議に応じていれば違う結末となった事案だったでしょう。

◆ 損得ではなく、己の信念を貫き通し、豊臣方に忠義を尽くし通して玉砕した漢、真田幸村(真田信繁)

◆ 元は豊臣家に仕えていたが、家康との信頼関係で徳川方に付いて戦国時代を生き延びた漢、藤堂高虎

比較してみると、対比がわかりやすいですね。


◇ 成り上がりの築城名人『高虎』


藤堂高虎は、はじめから築城の知識があった訳でも、築城の腕が優れていた訳でもありません。

前述のように、藤堂高虎は小領主の子として産まれており、小領主といえども、ほとんど農民と変わらないまでに落ちぶれていたと言われています。

初めて主君を持ったときも、一介の足軽にすぎなかったのです。

そんな高虎に転機を与えたのが、長年仕えることになった豊臣秀長。

「安土城」から始まり、「和歌山城」、「大和郡山城」など、様々な城の築城にかかわる経験を得られました。

また、高虎の故郷には「甲良大工」(こうらだいく)という集団があり、その甲良大工からも築城技術を身に付けていきました。

さらに、高虎は自らも出陣する武士でしたので、どういった城が攻めやすいか、攻めにくいか、どういった技術があれば役立つかを実戦からも着想を得られたのです。

築城名人は、豊臣秀長に仕えた運と高虎自身の努力の賜物といえます。

生涯を通して15~20近くの城の築城に携わっており、これは他の武将と比較しても多いです。

特に、城の設計図であり、城の防御を決める重要な部分である縄張りを幾度も担当。

縄張りを任せられるということは、それだけ高虎の築城技術に信頼が寄せられていたということ。

特に徳川氏に仕えるようになってからは、その築城の依頼も増えたと言います。

また、高虎は城づくりを極めただけでなく、家康公を奉った日光東照宮の建造にも携わっています。


◇ 時代を生き抜く学び(まとめ)


混沌とした戦国時代の真っ只中だったということもあり、一寸先は闇、いかに明日を生き延びるかの世の中だったようですが、それでも学べる点は多いと思います。

現代でも各地で紛争は起きているし、利権争い、仕事や人材の取り合いなど、見えていないところで日々争いは起きているので、根本的には今も昔も変わっていないと思います。

若き頃の藤堂高虎は、豊臣秀長に仕えるまでは主君をコロコロ変えており、現代で言う就職浪人といえますね。

文字通り、当時は浪人(流浪人)がゴロゴロいたようなので、別に珍しいことではありませんでしたが、現代のように食べていくにはキツかったでしょうね。

そんな高虎も無銭飲食の逸話(まるもちの逸話)があるので、当人も食べていくのに難儀したことでしょう。

藤堂高虎は、人望を磨き、武士として戦地に赴きながら築城技術を学び、築城名人として重宝される人物として成り上がっていった努力家です。

特に真田幸村(信繁)と藤堂高虎の人生を比較した場合、どちらが良いか悪いかという話ではなく、変化の激しい時代を生き抜くヒント(というか答えかな笑)が隠されているのではと思います。

巷には星の数ほど自己啓発本が出版されています。

自己啓発本も良いですが、それに飽きたら歴史の中に現代を生き抜くための役立つヒントが無数にころがっているので、コミックでもゲームでもいいのでオススメですよ。


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