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近代国家の学校は、ポストモダンの学校に変われるのか?

 不登校が増えている。コロナ禍によって直接的には増えたと言える。ただし、それだけが理由ではない。子どもが通う学校の現況は、魅力的とは言えないからではないか。学級の人間関係や自意識も関連しているだろう。クラスやSNSでの承知欲求の成就によってのみ若者のアイデンティティが形成されるのだろうか。(参考 https://gentosha-go.com/category/t1152_1

 では、学校はなぜ魅力的でないのか。コロナ禍によって対面コミュニケーションが減少したこと、中等教育の途中で高校入試による選抜と競争があること、学校の時間割や人的配置が固定的であること、学校や教師が政策やルールに従い創造的な活動を行い難い構造や文化があることに問題はないだろうか? 教育課程政策には問題はないか。(https://www.yomiuri.co.jp/column/henshu/20230113-OYT8T50074/)社会的モデルに立てば、発達障害の子どもは、今の日本の学校には通い難いのではないか。子どものせいでは決してなくて、学校教育の制度や政策が課題を抱えていることが問題なのである。

 これらの制約や制度は、実は、近代学校制度として形成されてきたものである。近代学校制度は国民を形成する制度であり、その先には国家の形成があり、学校に様々なルールや制約を強いる。子どもには受験勉強や競争を強いる。

 高度経済成長期には就職や所得の上昇というメリットがあったため、子どもたちには受験勉強に納得するだけの理由があった。子どもたちが納得すれば、教師も学習の正当化を行い易かった。

 ところが、平成の時代に入り、日本の経済が低成長になった。同時に情報技術の革新、グローバル化が進んだ。同時に、ナショナリズムも台頭している。その頃、新自由主義が導入され、学校は質の保証が求められた。学校は評価の対象になり、一層競争に駆り立てられた。しかし、新自由主義は、学校や教員の質、学校の成果を上げることに寄与したのだろうか。ジョン・ハッティは、学力が低く変化のない学校、すなわちクルージングスクールの存在を指摘し、学校は変わっていないと述べた。(Educating Australia – why our schools aren't improving, University of Melbourne Press, 2017)結局、新自由主義は、一見、現代的な新しいカタカナ語を使用した政策や制度を取り入れたが、国家のための教育を効率的に施す手段であった。このため、新自由主義の教育改革とその帰結は、近代国家の枠内に留まるものである。

 ある面において、日本の学校は近代国家の枠内にとどまっている。別の国は、別の面において学校が近代国家の枠内に留まっている。その背後には、原理(公正、ヒューマニズムなど)、行政制度、文化、歴史がある。言語や理論のグローバルな流通の程度も、国によって異なる。

 このような国同士の違いに着目した国際比較文化的アプローチが、各国の近代国家の正体を見抜くために必要である。まずは、どの面で、日本の学校は近代国家の枠内に留まっているのかを考えよう。例えば、ゆとり教育批判は、その日本的な現れの一つである。(https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784811807782)さらに、心ある校長や教師の声を聞けば、近代国家の枠内に留まる日本の学校の問題点が浮き彫りになる。(https://www.toshindo-pub.com/book/91775/)そこから思考を始めよう。海外との比較ではどうなのか。オーストラリアの学校も一見ポストモダンに対応している感があるが、日本とは特徴が異なるものの、問題が残されている。(https://theconversation.com/educating-australia-why-our-schools-arent-improving-72092

 では、ポストモダンの学校への出口はあるのか。無いことはない。

 筆者を含む国際的な調査研究によると、優秀なー効果的なというではなく、サクセスフルなという意味ー校長や教師が手掛かりを持っている。サクセスフルな校長や教師は、ポストモダンの学校をすでに目指している。その特徴や価値基盤を解明し、広げる必要がある。近代国家の学校の限界や問題点を認識して、何とか対応し、創意工夫しようとしている校長や教師の力を集約しエンパワメントすることが鍵である。また、ポストモダンの学校を目指すためのアイデアをボトムアップで発信すべきである。校長会はそのような機関にならなければならない。もちろん、子どもの発達を助成するためにである。

 次に、競争ではなく、ウエルビーイングのための教育改革に転換すべきである。教育行政機関はそのことに気がついているか。そのための基盤ー政治的、行政的、理論的基盤ーの程度や性質によって、各国の相違が出てくる。例えば、日本とフィンランドでは、教育改革の基盤が大きく違うのではないだろうか。とすれば、フィンランドに学ぶべき点があるのではないか。また、アメリカも同様である。例えば、社会情動的能力の育成は、ポストモダンの学校を実現するために重要である。この点、アメリカは一時は遅れていたが、アメリカの理論的基盤は強く整備されている。そして今日州によって違いはあるが、取り組みが進められている。ここに、日本が学ぶべき点がある。国際比較文化的アプローチの意義が見出せよう。
   
 最後に、国家間の比較だけでなく、自治体間や学校間の違いに着目したい。例えば、学校間で、なぜポストモダンの学校や教室への取り組みに違いがあるのか。児童生徒の学びの質や創意工夫、協働体制だけではない。教師にとって働きやすい職場かどうかも課題になる。たしかに、校長の力や、鍵となる教員の力が大きい。ところが、移動しても、ポストモダンへの取り組みが維持ーサスティナブルという意味ーされる学校がある。もちろん、逆の条件が維持される学校もあろう。いずれにせよ、この維持、継承は、文化によるものであろう。同時に、文化を構成する人間とそのコミュニケーションー対話ーによるものである。対話が逆機能した時、そこに葛藤が生じる。さらに、人間性や価値基盤の問題が生じている。これらの観点は、AIの発展に伴い、より重要になってくるだろう。

                   (©️ Dr Hirosh Sato 2023)

 

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