「期待すること」が苦手|自分の思考のクセに気づいたらやるといいこと
私は、昔から誰かや何かに期待をすることが、すごく苦手です。
なぜそういう感覚を抱くようになったのか、そのきっかけとなったかもしれないすごく印象的な幼少期の思い出が一つ、今でも私の中に鮮明に残っています。
期待してすごくがっかりした「出前」の思い出
それは私が小学生の頃、我が家で出前をとろうか、という話が出たときのこと。
今でいう食べ物の「デリバリー」のことですが、当時はデリバリーという呼び方がまだ一般的に普及していなかったのか、もしくは我が家で馴染みがなかっただけなのか、とにかく我が家では「宅配」とか「出前」なんて呼んでいました。
当時、私の家では外食をする機会が少なく、また、今から30年前ともなると、まだテイクアウトの文化などもほぼ存在していなかったので、日頃口にする食べ物と言ったら主に母の作った手料理で(それはとてもありがたいことなのですが)、それ以外の食べ物を食べられる珍しい機会、貴重な機会というのが、出前をとることでした。
我が家で出前を頼むという珍しい機会は、いつも不意にやってきました。
頻度としては何ヶ月かに一回程度。ある日の、もうすぐ夕方になって普段なら母が夕飯を作りはじめるくらいの時間帯に、不意に母がぼそっと呟くのです。
「今日、出前でもとろっかー」
リビングの椅子に気だるそうに腰かけながら、前触れもなくぼそっと呟く母の姿を今でも覚えています。その様子からして、多分そうやって出前をとることを提案してきた母は、きっとその日肉体的に、もしくは精神的に、もしくは心身ともに疲れていたのではないかと想像できます。疲れているから、ぐったりしているから、自分がご飯を作るのがしんどくて、出前を頼もうとしていたのだろうと思います。
そしてそういったとき、母のぼんやりとした呟きを耳にした瞬間、私と三歳下の妹は、思わず「キャー!」とか「やったー!」と奇声を上げて、一気に大盛り上がり。子どもにとっては、やっぱり普段とは違うお外のご飯は新鮮で、非日常的なものを食べられるレアな機会が嬉しくて、大喜びで騒ぐわけです。ここまでは、妹と私で手を取りあわんばかりの盛り上がり様。
しかし、実はその直後に、状況が一転します。出前をとろうという話が出て、「では何を頼もうか」という段階になって、毎回ある問題が発生するんです。そう、具体的に何を頼むかで、大抵私と妹の間で対立が起きるのです…!
大抵の場合は、私が宅配ピザを希望して、妹がお寿司の出前を希望するのが定番でした。お互いよっぽどピザと寿司が好きだったんでしょうね。どちらもずっと趣向は変わらず、私は常にピザ派(当時本当にピザが大好物だったんです!)、妹は寿司派でした(妹、渋い。そして私は当時寿司自体があまり好きではありませんでした)。そうなってくると、その場で話し合いが持たれます。
ときには、お互いに「じゃあ今日はピザでいいよ」と譲歩してみたり、「今日お寿司にしてあげるから、次回はピザね」などと交渉して、なんとか意見を一つにまとめられることもありました。(ちなみにこういうとき、母は何を出前にとるかは私と妹に任せて、特に口出しはしてきませんでした。)でもときには、どうしてもお互いなかなか希望を譲ろうとしないときもありました。そうなってくると話し合いは平行線で、しまいには険悪ムードになってきて、結論が出ないまま無言で時が過ぎ去っていく…みたいな事態になることも。
そしてそうやって私と妹がお互いなかなか折れずに、いつまで経っても頼むものを決められないでいると、これまた不意に、意見がまとまることを諦めた母がぼそっと呟くのです。
「じゃあもうやめよっか…」
その母の言葉を聞いたときの絶望感と言ったら…!
母がその言葉を発する頃には、母はもう私と妹の言い争いに疲れていて、多分それ以上平行線を辿るやりとりを聞いているのが面倒くさくなって、だったらもう適当に料理してしまおうと、そのまま椅子から腰を上げてキッチンのほうに夕飯作りに向かってしまいます。そこまでいってしまうと、また出前をとってもらえるように交渉するのは不可能。私と妹は失意の中、呆然とキッチンに向かう母の後ろ姿を見守るしかないのでした。
そのときの私は、せっかく滅多にない出前をとってもらえる機会があっけなく消えてしまったことに、本当に気持ちが落ち込んで、残念すぎて、思わず泣きそうになるくらい、悲しくてたまらなかったのを覚えています。
そしてそんな悲しみと同時に、「最終的に注文してくれないなら、最初から出前頼もうなんて言わないでよ!」とも強く思っていました。こちらに期待を持たせておいて、それを一瞬で取り上げるなんて酷い!と悲しみを通り越して、母に怒りすら湧いていました。(妹とうまく折り合いをつけられなかった自分のせいでもあるのですが、子どもの頃の私はそんな冷静に状況を振り返られなかった…!)
この「出前を頼むことになったけれど、結果的に頼まずに終わった」という経験は、その後もたびたび経験しました(逆に出前を提案されてうまく折り合いがついて出前を注文できたこともあるにはあったのですが)。その度に、その「期待して裏切られる」経験が私の中に積もっていきました。
この出前にまつわる思い出が、私が期待をしてがっかりした出来事として最も印象深く記憶に残っています。
期待をさせておいて、その期待をとり上げることの残酷さ。その理不尽で裏切りにも思える母の行動への怒り。一度気持ちを上げられて直後に下げられることで感じる絶望感。
それらすべてが、トラウマのように私の中に残り続けました。
「期待すること」が怖くなってしまった私
その感覚は、あれから時が経って大人になってからも、私の中に残り続け、不意に蘇ってくることが多々ありました。
例えば日々の中で嬉しいことや楽しみな予定が出てきたとき、
「いや、でも、あまりに喜びすぎたり楽しみにしすぎると、あとで何かあってがっかりするかもしれないから、あまり喜びすぎないようにしよう」
「思い通りにはいかないかもしれないからあまり期待しないでおこう」
なんて、期待することであとからがっかりしたり傷つきたくなくて、事前に予防線を張るようになっていました。
あまりにも無意識に反射的にやってしまっていて、自分の「嬉しい」とか「楽しみ」という気持ちを抑えようとしてしまうところがあることに、数年前までまともに気づいてもいませんでした。
でも、心と思考の仕組みについて学んだとき、自分には「嬉しいことや楽しいことに対して(そのあとのことを思って)不安になって気持ちを抑えようとするところがある」と初めて自覚することになりました。いわゆる、自分の「思考のクセ」に気づいたんです。
自分の「思考のクセ」に気づいたらやるといいこと
ここからは、自分の「思考のクセ」に気づいたらどうするといいか、というお話。
自分の思考のクセに気づいて、それを嫌だとか面倒くさいだとか何かしらネガティブに感じたとしても、まずは自分のクセを責めなくていいし、そのクセを突然無理矢理直そうとしなくても大丈夫です。
むしろ、長年やってきた思考のクセは、気づいたからといって突然すぐに変化させたり改善させるのは難しいことがほとんど。何年、何十年と繰り返して自分に染みついているからこそ「クセ」なわけなので。
だからまずは、ただ「私はこういう考え方や感じ方のクセがあるんだな」と自覚するだけでオッケー。
例えば私の場合であれば、「私は嬉しいことや楽しみなことが発生したときに、つい予防線を張って感情を抑えようとするクセがあるんだな」とまずは自覚して知っておくだけでいいんです。
そうすることで、例えば自分が「嬉しい」「楽しみ」という気持ちを抑えて先のことを心配しすぎたり悲観しすぎていたら、そう考えるのは私のクセなだけであって、必要以上に心配しすぎることはないんだよ、と自分で自分に声をかけてあげることができます。
「私は本当は嬉しいんだけど、同時に不安なんだよね」と知っておいてあげるだけで大丈夫。
そして、もう一つ。
「嬉しい」「楽しみ」という気持ちで不安になったとき、それが主に自分に関することで、自分がある程度調整できることなら、どんどん行動に移してあげてもいいと思います。
例えば私の例で言えば、出前のことで母にがっかりさせられたことなんてもう30年以上も前のこと。大人になった今は、「出前を頼みたい」と思ったらいつでも出前をとることができるわけで、だから自分の希望通りに出前をとってあげればいい。小さい頃はもっと行動に制限があったけれど、今の私は大人なのだから、自分の「嬉しい」の気持ちを自らとりに行きやすいし、できることはやってあげたらいいんですよね。
逆に、もし自分ではどうにもできない事態なら、「思考のクセ」はそのままに、ある程度時間や状況に委ねるしかないかなと思います。
例えば、旅行の予定を立てて、その少し先にある旅行の予定に「楽しみ!」と感じて、でもやっぱ思考のクセで「自分や家族が体調を崩したり、天候が悪化したり不測の事態で行けなくなるかもしれない…(だから楽しみにしすぎないようにしよう)」と思ったとしたら、未来の他人の体調や天候は自分自身がコントロールできることではないので、そこはもう、委ねて当日になるまで待つしかないですよね。
そしてそんなときに私にできることといえば、やっぱり「旅行が楽しみだけど、同時に不安なんだよね」と自分の考えていること感じていることはそのまま自覚して、ただ受け入れてあげる。
こうやって自分の思考のクセを知って受け入れていくことを繰り返していくと、だんだんと「また楽しみだけど不安になっちゃったんだよね、私ったらかわいいやつめ♡」なんて、自分自身が可愛くなってきたりもするのでした^^
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