1923年8月に起こったことを(ry そのⅡ

痛勤電車の全国の皆様、いかがお過ごしでしょうか。小生もここ三月の彼岸からその痛勤に加わったのですが、ここ最近の痛勤は流石にどういうものかと(ry

前回の続きで「痛勤と関係ないのでは?」と突っ込みが入りそうですが、鐡道屋稼業(+竿氏)×軍人の視点から何が起きていたかをありのままお届けします。

父方の祖母は150年前から箱根の坂の東(正確にはタンーンパイク)で、漁師と港湾整備と地域復興(これでとある侠客からスカウトされ、鐡道屋を起業することに)に関わることになりました。でも最初に多石寺で教えられたのは花札と囲碁でしたが・・・(囲碁は今もしてるが花札は役に立たないw)

囲碁は経験者ならわかるように「縦のアミダくじ=パスカルの三角形と横のアミダくじ=フィナボッチの三角形」で最も効率的なルートで人と物と金を運ぶか?という漁師(最短で駿河湾の幸を築地に運ぶ)の仕事に「ずばりそうでしょう(ちびまるこちゃんの声で再生www)」

1854年、江戸幕府崩壊と鐡道稼業のきっかけになったのが「安政大地震」でした。実はこの時「1944年8月と同じ事が起きていた!」ことを、坂東平氏総代@北鎌倉のでかい寺から確認したので追加することにしました。

この坂東平氏は規模は多石寺程ではないもの、「歴史の長さでは足元にも及ばないビックデータ」を書き残し、「貞観地震から1944年」までの被害と予兆を文章化及び口承で檀家に伝えていること。さらに「多石寺と変わらないとわかった」ので協議の結果、文章化する許可を頂き筆を執りました。

駿河湾と相模湾≒江戸前の違いはありますが、生態系は共通するので今会は寿司ネタから。何故寿司なのかwと思われる江戸っ子は多いかもしれませんが、「個体数があり時価≒値段が変動する」ことで気付きやすいかと思ったからです。リュウグウノツカイ≒人魚(青い肌で赤毛は体色とひれの色から?)や金目鯛(一般に流通したのは1854年からだが、1605年の慶弔伏見地震の頃から三浦半島・伊豆半島では流通しており当時の絵も残っている)が使えるかも?と思ったが、多石寺とKT寺の双方と協議の結果、「因果関係を証明するのは難しい」と判断

まずは伊勢海老。「撮ると死ぬ葉山の伊勢海老」は湘南では鉄板だが、これをKT寺で聞くには「直下型地震警報」としてわざと禁漁にしているとか!?実際に多石寺ー浅間神社も西伊豆から興津の伊勢海老を禁漁にしているのは同じ理由。(1605年慶弔地震・1707年宝永地震・1854年・1923年とも夜行性の伊勢海老が昼間から上陸した記録あり!

葉山の伊勢海老だが、こちらも富士火山帯ー相模トラフ警報として機能しており、浅間講の4回どころか1516年の三浦一族滅亡の時、北条早雲が「牛の大軍で相模≒西湘南」に攻め込んだ時の直前にも伊勢海老の上陸があったとか!(牛の大軍の記述は小田原市ローカル都市伝説だったが、故司馬遼太郎が上肢した「坂の東」で採用されたことで定着した。これも続きで小生と師匠二人の推理を伊勢海老とセットで述べる。)

これは筆者の私的な?だが、鎌倉市はやたら幽霊というか霊口密度が高い!霊口密度なら関ケ原だろう!と思う方は多いだろう。だが実際には日本シリーズ決勝会場の場所が自動的に木曽川になるからということに最近気付いた次第(三国史記と日本書紀ですら、弘文天皇@百済vs天武天皇@新羅の壬申の乱の決勝会場を木曽川と書いているwいわゆる壬申の乱)




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