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高尾山ノスタルジア No.13:表参道登山口から霞台へ(2/2)

「八王子名勝志」にある「七曲」の説明を読むと、おもしろいことが書いてあります(資料①)。以下に引きます。

(資料①)「八王子名勝志」の七曲の説明箇所(注1)

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七曲ななまがり
古瀑布ふるたきより金毘羅こんひら物見䑓ものみだいまでの坂路をいふ。左に琵琶の瀑布たき道あり
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これは、進行方向向かって左の方に琵琶滝への道があるという(つまり、左方向に琵琶滝への道が見えるという……地形を観察するに、七曲から見えたとはとても思えませんが)単なる相対的な位置関係の説明なのか、それとも、七曲の九十九折のどこかから琵琶滝へとつながる道があったということなのか。後者が事実であれば、この道は現在エコーリフトならびに高尾山ケーブルカーが敷設されている斜面を横切ることになります。こんにちその痕跡らしきものを見出すことはできませんが、ケーブルカー敷設に伴い廃止されたというようなことなのでしょうか。リフトやケーブルカーに乗るときに地面に目を凝らせば何か見つかるかもしれません。

古滝があったと言われる地点から七曲の急峻な九十九折の道をあがると、1号路から少々外れますが金毘羅台の展望台に出ます。この金毘羅台へは高尾山麓の落合地区から直登するコースがあり、通称「金毘羅台コース」と呼ばれています。さまざまな文献によれば、現在の表参道が整備される前はこのルートが表参道であった可能性があるらしいのです。現在でも通行は可能ですが、道は狭く足元は一般的な登山道と変わらないので、現在の姿に表参道の風格は全くありません。

現在の1号路が整備される前は、地図に表示のある金毘羅台コースが表参道であったという説がある。現在も通行可能。(注2)

金毘羅台は、その眺望の良さが江戸期からの地誌寄稿文のほか様々な文献にて言及されており、実際に都心方面の眺望が秀逸。現在も「金毘羅台園地」として見晴台が整備されています。

金毘羅台園地。秋はイチョウが見事に染まる。
昭和9年(1934)の日付がある登頂記念スタンプが押されている絵葉書にある、金毘羅台からの遠景写真。写真中央に写る小高い山のようなところは、現在浅川あさかわ金刀比羅ことひら神社がある、通称「こんぴら山」と思われる。(注3)
現在の金毘羅台からの遠景。関東平野が一望できる。冬の霞がない晴天の日であれば、筑波山や房総半島まで見渡せる。人気の日の出夜景撮影スポットでもある。
中央の黄色の帯は、甲州街道の黄葉したイチョウ並木。
写真中央やや右の小高い山が「こんぴら山」。上の写真と比較すると、資源利用による伐採の影響か、初和初期は木立が少ない。
(資料②)「八王子名勝志」にある金毘羅台の挿絵(注1)

「八王子名勝志」にも金毘羅台の眺望について言及があります(資料②)。以下に引きます。(表示できない文字は現代文字に置き換え。)
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此所このところ眺望てふぼう筑波つくば日光にっくゎう諸山しょさんはるかしてちかく瀧山神護寺じんごじ旧壘きゅうるゐのぞみて駒木野こまぎの小南字こなじ河原宿かはらのじゅく八王子の驛舎えきしゃ陸続りくぞくとして長繩ちゃうじゃうつらねたるが如く南はとほく武相房総のうみに至りてはるかに雲天につづな脚下きゃくか平田へいでん茫々ぼうぼうたるが中にめぐれる相模さがみ川は白練しろきぬひくたり晴日はれくるひにはまた伊豆いづの大嶋もあざやかにみゆといふ
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天気がいいと伊豆大島も見えたというのですが、本当でしょうか。

さて、金毘羅台からも急登は続きます。そして、左手に高尾山エコーリフトの山上駅を過ぎると、やっと坂の上が見えてきます。あがりきると一旦道は平坦になり、土産屋や茶屋など、人の賑わいがある場所に出ます。霞台です。

昭和2年(1927)の高尾山ケーブルカー開業から間もない頃と推定される、ケーブルカー山上駅(高尾山駅)の写真。(注3)
上の写真に近い構図で撮影した、現在の高尾山ケーブルカー山上駅(高尾山駅)。
上の写真に写る駅舎を反対側から撮影。開業当時、こちら側は開発されていなかった。
開業から間もない頃に発行されたと推定される絵葉書に残る高尾山ケーブルカー山上駅(高尾山駅)(注3)
こちらも戦前の絵葉書に残る写真(手彩色)だが、高尾山ケーブルカー開業後に現在の駅舎に隣接する形で「髙尾山駅食堂」が設けられたことがわかる。(注3)
上述の「髙尾山駅食堂」開業後の高尾山駅を別の角度から写した写真。(注3)

霞台には高尾山ケーブルカーの山上の駅(高尾山駅)があり、また、ここからしばらくは登山道の傾斜が緩やかなこともあって、さまざまな施設店舗が軒を連ねる行楽地として開発されています。ここは都心方面の眺望に優れており、高尾山の観光情報などで光きらびやかな都心方面の夜景の写真が掲載されているのをよく見かけますが、そのほとんどが霞台の展望施設から撮影されたものです。

(資料③)明治四十年(1907)から大正六年(1917)の間に発行されたと推定される絵葉書の絵図。十九丁目(現在の霞台)に十一丁目茶屋が描かれているが、この時は開発がなされている様子はない。(注3)

先述の絵葉書の絵図(資料③)を見ると、霞台(表参道「十一丁目」の表示があるところ)に茶屋らしきものが描かれています。明治三十二年(1899)創業の、十一丁目茶屋です。現在も同じ場所で営業しており、座席からの見晴しのよさが人気の茶屋ですが、このころはそれ以外に霞台の開発がなされていた様子はありません。やはり現在の賑わいは、高尾山ケーブルカーが開業した昭和2年(1927)以後のものと思われます。

事実、高尾山ケーブルカー開業から間もない頃と推定される絵葉書の写真を見ると、駅の周りにはなにもありません。これが、ちょっと時をくだると駅前には「髙尾山駅食堂」なる施設が登場し、行楽客らしき人物も写っており、開業まもなくここが高尾山観光の目的地の一つになったことが伺えます。

(資料④)戦前の絵葉書に残る、霞台から撮影した高尾山ケーブルカーの遠景。(注3)
上の写真に近い構図で撮影した、現在の霞台からの遠景。戦前の写真に写っている二軒茶屋があるところに、現在は東京高尾病院が建つ。

霞台はまた、東京高尾病院脇から上がる通称「病院道」と蛇滝からあがる通称「蛇滝道」が1号路と交叉する地点でもあり、これらの道は古く江戸期から利用されていることから、歴史の痕跡の宝庫でもあります。くまなく歩き回るとあちこちにさまざまな発見があり、ケーブルカーを利用してのちょっとした散歩にはうってつけです。


(注1)
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(注2)
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出典:国土地理院ウェブサイト(地理院地図:電子国土Web)
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参考資料:文化庁 著作物等の保護期間の延長に関するQ&A


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