【エッセイ】みんな「勢い余って」生きているのを見ると、考え過ぎちゃダメだなと思うよ
私はとても臆病者なので。
自分に自信がなさすぎるまま、長く生命体として存在を続けてきたので。
「いやいや私なんて」という言葉が、ついつい口からこぼれます。
なんにも大したことないんで。
しょうもないしょうもない。
そう言いながら生きていますが、しかしライターという仕事をし続けてきて、取材をさせていただくと、
「ライターさんが取材してくれました!」
「ライターさんと打ち合わせしました!」
と、報告SNSに載せてくれたりするのです。相手の人が。
※顔は写っていないことが多い。
それを見ると、なんか、大したことありそうな人に見えてくるのです。
この世は言ったもん勝ちなのかも。
そういうのを見ると。
この世は「ライターという私」という存在が、実は大したことあるとかないとかそういうのはどうでもよくて。
ある程度の文章が書けて、ちゃんと約束を守り、言葉が通じて、それなりに清潔感がある存在であれば「なんでもいいんだ」ということに気がつきます。
でも企画の段階からビジネスパートナーとして協力するとか、本を一冊作るとか、そういう大それたプランがある場合は「あなたはどういう人なのか」を事前に綿密に報告する必要はありそうです
一回こっきりの取材だとそこまではない。
で、ライターですって名刺持ってきて取材して原稿を書いて渡せば、OK。
修正があるならそれにきっちり対応すればよい。
ちゃんと読んでくれてフィードバックをくれる人だととてもよい。
本当に大事なのは、本当は大したことあるとかないとか、そういうことではなくて。
「やりたいことをやっています」
「頑張っています」
「これくらい成果出せました」
と、事実を言語化してこの世に伝えること。
そして、何をやるのか。
何をやりたいと思っているのか。
これからどう生きていくのかを自分で考えていくこと。
大したことあるとかないとか、それは誰にとってもどうでもいいこと。
だから「ライターさんが取材してくれました!」は、そういうベースの上に成り立っている、ただの事実であるわけです。
突っ走ってる人々は、どう思われているかを気にしない。
取材する相手が、やりたいことに向かって全力で突っ走ってる系の人も多いです。
事業を始めた人。
店を始めた人。
イベントを主催する人。
何か、人を巻き込んでやり始めている人。
まちおこしをする人。
そういう人々が、自分がやりたいことを細分化して、やるべきことをステージごとに分け、資金繰りから現実的なスケジュールに落とし込むまでをガツガツ進めているのを見るにつけて。
取材して話を聞くと、全く細部が詰まっていなかったり、かなり見切り発車っぽい状況であることがわかるのです(なぜなら文章にするために話を聞くと、途中の情報がごっそり抜けていたり、目標とするゴールが結構ブレていることがある)。
そこで「ここ曖昧ですよね」って指摘すると、その指摘さえ「いいところに目をつけたーーー!」みたいに喜んでもらえることも。
むしろ、ありがとう! 的な感じ。
「しまった! 痛いところを突かれた」みたいな反応はない。むしろ「どうすればもっとよくなる?」とキラキラした反応が返ってきます。
その状況を見て、なんかもう「すごいな」と。
やりたいことがあるなら、ゴールを設定して、それまでに何をやるか決めて、突き進めという生命体の本質を見た気がしました。
つまりは考えながら考え過ぎない。
動き出す人たちのスピード感が異常とか、えっもう始めてるの? みたいな状況はよく見てきました。
事業をガシガシ起こす人たちは動きが迅速です。
で、それを取材すると「あれ、そこまで考え抜いてないな」ということに気がついて。
つまりは、「やりたい」と思ったら始めているのだなと実感。
もちろん細部まで突き詰めていけるに越したことはありません。でも考え過ぎると時期を逸してしまう。
大まかな展望、数年後の未来像。資金の集め方。メンバー。そういうのをしっかり確保してチームをまとめながら、綿密に考えつつも考え過ぎないでとりあえずやる、そういう場面をたくさん見てきて。
「やるか、やらないかだな!」
と、最近、再び思いました。
大したことないからとか、できないとか、いや私なんて、という謙遜とか。
そういう考え方は、空気の一部の二酸化炭素の端くれみたいな。※どういうこと?
色々な人に会うと刺激をもらうのですが。
最終的には、私がどういう人生を歩いていくかの問題。
その答えは私の中にしかありません。
そろそろ、「私なんて」はどっかに捨て去るべきだな、と思いました。
終わり。
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