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東京の空に浮かぶ月【2000字小説】

 初春の夕焼けに東京タワーが淡く燃えている。夢と欲望が蔓延るこの街が温かいように思える。そんな明るみに産み落とされた生命は、生きて死ぬだけでは、その命を全うしたとはいえないのだろうか。

 何かになりたいという夢がないまま学生時代を過ごした。どちらとも公務員である田舎の親には手堅い仕事をしてほしいと反対されたが、小さな頃から馴染みのあった飲料メーカーに就職した。今日はノルマを達成できなかった。空が赤く染まる時、僕は公園のベンチに腰かけていた。あたりに人気は無く、冷ややかな夕風が街の熱意に温められた空気を夜へとなじませていく。僕のやり切れない思いは、日没とともに赤く照らされた力強い光に吸い込まれて消えた。

 今月に入った頃、中学の同窓会の案内が届いた。地元では中学の同窓会は成人式に合わせて行うことが通例だったが、僕は隣町にある幼小中一貫の私立の学校に通っていたので、近隣の町から生徒が集まる学校ではそれがなかった。だいたいの生徒はそこを卒業すると、隣県との境にある県内で最も偏差値の高い高校に通い、卒業するまで同じ顔ぶれの中で過ごす。けれど僕は家から徒歩で20分ほどの公立高校に入学したこともあり、中学の友人とは卒業後一度も顔を合わせていなかった。

 夕飯の買い出しをして帰ろうと組んでいた足を解いた時、電話が鳴った。上司からだと察し反射的に立ち上がり画面を覗くと、中学時代仲の良かったマサヤからだった。
「懐かしいなぁ」
 の言葉が自然と口からこぼれ、再びベンチに腰掛けてから電話に出た。
「もしもしー」
「おぉ!カナデ!久しぶり!」
「そっちからかけてきて、なぜ驚く」
「いや、声が懐かしすぎて、つい口から出てしまった、すまん」
「あほなのか」
 と笑いながら言うと、向こうも笑っているのが分かった。9年近くマサヤとは会っていなかったが、昨日のように話せたことが嬉しく、続けて話そうとすると先にマサヤの声が聞こえてきた。
「カナデ、来週の同窓会必ず来てくれよ。みんな医師の国家試験や修士論文の提出が終わった時期だろ。来月になったら忙しくなるからな。僕も来月から海外赴任でしばらくこっちには帰ってこない。会えるのは今しかないんだ。絶対来てくれよ、カナデの話はその時に聞こう。楽しみだ。」

 その後、マサヤには
「分かったよ」
 と返事をして、電話を切った。
 公園の砂場で茶色い縞模様の猫が身体を砂にこすりつけている。体が痒いのだろう。体が痒いからといってその原因を突き止めるため、猫は医者になるだろうか。学者になるだろうか。生まれて食べて寝て交尾して死ぬだけだ。何も遺さない。そのことに誰も文句など言わない。抱きしめて涙を流すのだ。生まれてきてくれてありがとうって涙を流すのだ!夢を手にした者、叶わない夢を追い続ける者、諦めた夢を捨てきれない者、何も追いかけていない僕はその何者にもなれなかった。東京タワーの明かりが僕を通りこして街を照らしていた。

「月が見えるかね。」

 当然、近くで声がした。声をしたほうを向くと隣のベンチに人が座っていた。服は汚いが、髪や髭は綺麗に整えられているお爺さんだった。さっきまで砂場にいた猫を膝にかかえていた。こちらを向いてはいなかったので、猫に話しかけているのだろうか。
「君には月が見えるかね、若者よ」
お爺さんは、どうやら僕に話しかけていたらしい。月、そういえば東京タワーの先に月が見えた。満月だった。
「あ、はい、見えました。満月ですね。」
「そうか、君には月が見えるか。もしも月が見えなかったら、アメリカ人も月に行こうだなんて思わなかったのではないかな。」
 そう言うとお爺さんは立ち上げって猫を砂場に戻した。そして、やはりこちらを向かないまま
 「君も月に行きたいか」
 と、言って去っていった。

 社長になってお金持ちになりたい、宇宙飛行士になって月に行きたい、なんていう夢は小学生が考えるものだ。多くの少年が1度や2度、目をキラキラとさせて母親に語ったはずだ。それと同じ心を持った人間は、この街にはさほどいないだろう。僕もそうだ。やりたいことがなく就職したとはいえ、同期の中ではトップになりたかったし、マサヤたちがこれからどんな経験をして、どんなにお金をもらうのかがすごくに気になった。自分のことなど好きではないはずなのに、自分こそが燃えるように輝いていてほしかった。でも、それは心の叫びではないことをあのお爺さんは知っていた。

 もう一度月を見上げた。僕のちっぽけな身体をその青白い光はたしかに捉えていた。僕の心がやわらかな光に包まれ、月夜に浮かび上がっていく。僕の身体から離れたその物体は東京タワーを越えて、名の知れない星のように小さくなってもこの目で追うことができた。街の強い光に惑わされることなく、月のように堂々と輝いて僕のことを照らしている。

 猫がニャーと鳴いた。

 砂場の猫に目を向ける。猫もこちらを向いていた。
「僕は猫になりたかったんだ。」
 マサヤに会ったら、そう言ってやろう。

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