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元・阿呆学生の戯言と自己受容


我ら元・阿呆学生のバイブルが課題図書とあらば、もう万難を排して記事を書かねばならぬ。恋人が泣き縋ろうが、上司が怒鳴り込もうが、この任務の前には些末なことだ。だが、いささか見るに堪えない。
責任者はどこか。ここだ。

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森見登美彦『四畳半神話大系』(KADOKAWA)

我こそは吉田神社の麓で無為な時を過ごし、鴨川デルタで友と日本酒の一升瓶をあけ、下鴨神社の古本市を闊歩し日々を過ごした阿呆である。
これは明石さんになるはずが、なぜか小津も真っ青になる妖怪として生きてきた者の詮無い戯言だ。得るもののまったくない記事であるが、好事家諸君は酒の肴に、口に合わなければその辺の犬にくれてやるがよい。


阿呆=無用の用

『四畳半神話大系』に出てくる「私」をはじめとする学生どもは、読者諸君にしてみればただの阿呆に見えるかもしれない。リア充どもに花火を打ち込み、自虐的代理代理戦争にうつつを抜かし、ジョニーの暴走とたたかい、「コロッセオ」と託宣を下す老婆に誑かされる。「何の役にも立たない」と社会に貢献なさる皆々様からお叱りを受ける所業の数々である。

だがしかし、ここで偉大なる莊子のおことばを思い出していただきたい。
車輪は「無」たる空間があってその役を果たし、器もその中の「無」たる空間があるからこそ、器として成立するのだ。
「故に有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり。」
我々阿呆学生の役目は、「有」がその役を果たすために「無」であることだ。あと大発明は、だいたい無駄から生まれるってペニシリンが言ってた。

「可能性」の欺瞞

「私」は薔薇色の大学生活を夢見ていた。1章では映画サークル「みそぎ」に入り、2章では樋口師匠に弟子入りし、3章ではソフトボールサークル「ほんわか」に入る。しかし、どの道を辿れど結局のところ小津と出会い、「僕なりの愛」に翻弄され、阿呆学生として生きる。そして4章の「八十日間四畳半一周」へと至り、四畳半という名の世界を彷徨うはめになる。

ここで我らが樋口師匠のありがたいおことばを拝聴しよう。


「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」

我々は無責任に「可能性」ということばを使いすぎではないか。トマトをどんなにがんばって育てても、林檎の実は生らない。その事実に対し、「可能性」ということばで誤魔化すのは不誠実であろう。「不可能性」を受け入れ、そのうえでどう生きるか。そこで重要なのが、老婆の言うところの「好機がやってきたら逃さないこと」であろう。

「ありのままで」最先端

このように見ていくと、『四畳半神話大系』は2005年時点で我ら阿呆学生の「ありのままで」を全肯定しているといっても過言ではない。某雪の女王が2014年公開だから、トレンドを先取りするにも程がある。

したがって、私は過去の自分を抱きしめはしないし、過去のあやまちを肯定したりはしないけれども、とりあえず大目に見てやるにやぶさかではない。

我々は、わかりやすく世の中の役に立つ人間にはなれない。どう足掻いても阿呆で変わり者で、世間に嗤われる人間だ。でも、そんな奴もまた世界に生きる一人であり、そこにいてもいい。
だって、世界はこんなにも広いのだから。ここは四畳半ではない。


おまけ


明石さんの「なんでそんなことあなたに言わなくちゃならないの?」は真似したい。ハラスメントには毅然と対応せねばならぬ。


#読書の秋2020
#四畳半神話大系

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