さわやかに自分が開かれる論

さわやかな日々を過ごしたい。だけど一つもないわけではない。時々ある。それならどんな時にさわやかを感じるのかを考えていけばいいのだろう。少し狙って手に入れられるかもしれない。そのために、さわやかという気持ちはどういうことなのかも考える必要があるだろう。


1/3 さわやかな気持ちについて

僕が浮かべたさわやかな気分は、さわやかな日、さわやかな心でいる時だった。さわやかな人と、さわやかな日やさわやかな心でいる時とでは、重なる部分もあるけど随分違う。

私の内面がさわやかになっていることと、あの人はさわやかだと思っていることとは違う。「私はミントタブレットを食べました」と、「あの人はミントタブレットを食べましたね」くらい違う。

ある人によって僕がさわやかな気持ちになることはあると思うが、その時は僕が(も)ミントを食べた時なのだろう。

ところで「私がミントを食べた時」、さわやかを感じている僕は、他人にさわやかな人だと思われるのだろうか?間接的にそうなのだろう。それが「あの人はミントを食べた」だし。

だけど他者は僕のミントを味わっていないのだから、キャラが表面に出せているため他人が共感しているということではないだろうか。

まず第一には、僕がさわやかだと思うことだ。それが共感されることはあるだろうけど、元ネタのさわやかがまずは知りたいところだ。


2/3 さわやかな気持ちはどんな条件で感じるのだろう?

どんな時に思うのかと考える。運動とかスポーツの時か。ちょっと馬鹿っぽく考えてみたけど案外はずしていないように思える。

近所をサイクリングしたらさわやかだと感じるし、山登りをするとさわやかだ。ただドライブや旅もさわやかな気持ちになることが多い。さわやか条件は、運動や移動によるものだろうか。両方にまたがるものなのだろうか。

僕の場合の運動によるさわやかさは、またやろうと思うときのようだ。おそらく軽い健康づくりだ。僕の場合の移動のさわやかさは、誰のものでもないという感覚な気がした。さわやかになる条件は「自分が開かれている」状態のようだ。何かに伸びが抑えられていないし、閉じ込められていない。

山や空を見たら、それは誰のものでもない。山の所有者がとかじゃなくて、風景を見ていて、その感覚は誰かに制限されない。好きなように眺められる。山に所有者がいたとしても見たらいけないわけではないし。

逆も考えられる。街を歩いていて勝手に誰かの家に入ってはいけない。道に面した誰かの家を、壁に触れてしまったくらいはともかく、しっかり眺めるのは行儀よくない。道、舗装路を歩いていて、この道をどうしようかとなんとなく考えることはあるかもしれないけれど、本気でたくらんで実際にそうしたらいけない。

そう思えば街のあちこちに、「気にしてはいけない」設定がされている。気にしないように “している” 箇所に囲まれた空間は日常に多くあり、わたしたちの目や心は結構な制限がされている。

街の中は、「気にするな」「考えるな」「しようとするな」だらけだ。やっていいのはただ「街に来い」「看板を見ろ」「店に入って買え」くらいだけだと。座っていいところも座っていいところ指定がされている。さらに店内では、静かにしろとかもっと飲めとか念がこもっている。

うああ。ちょっとでも空いているスペースがあったら合理的に埋めろと突き進む背広社会はとんでもないことをしているんだ!と思ったが、「ニーチェ」や「坂口安吾」が浮かんだ。

旧来の宗教道徳的なしつけが私たちを縛っている。それをゆるめてもそう崩れないだろう、人間はそんなもんだろうといったのが「堕落論」だったような気がする。

それだから、街にアートが点在しているといいんだ。アートでなくてもいいのだけど、見たければ見ていい、気にしたければ気にしていいものがあって、黒塗りしなくていい空間がほんの少しひらける。その街に風景が開いていないのなら、大きな要素だ。

ドライブや旅で風景を見るというのは、抑えられた心をひらけるものなのだ。確かにそれはさわやかだろう。

合理的に考えていくことが行き過ぎると、苦しい空間を作るんだ。「ハクスリー」や「オーウェル」の警告はこのようなものだったと思う。道徳の黒塗りに気づかない人は、街で平気に生きていられるのだろうけど。


3/3 まとめ

今の僕がさわやかを感じるためには、近所をサイクリングしたり、ムキにならず続けられる健康づくりをすること。ドライブや旅など、風景を見にいくこと。誰に勧められる前に、自分からみたいと思った本やアートなどを見ること。

さわやかは自縛の外に出たという感覚で、そういうものに高い価値があることを心は知っている。そしてそういうものを適度に散りばめた日常でいたい。こうバランスよくできたらおそらく、さわやかな日やさわやかな心でいられる時が必要量保てるだろうと。

健康体で指図されないとき。他者や自縛共に、やるべきことややってはいけないことから解放される時。「ニーチェ坂口的」そういう時 “も” 大事なんだ。しかし解放されるために「ハクスリーオーウェル」両方にまたがれば、緩すぎずキツすぎず、含まれることも必要だ。我慢が解放された時の気持ちよさに似たような図式だろう。

となるとさわやかキャラは多分、健康的で他人に指図しすぎないことなのかもしれない。だけど今は見た目もくっつけないといけないのがなにか歪んでいると思うけど。

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