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君のいる景色 3

 今日は定時で帰れるかと思っていたが甘かった。景子は3時あたりから残業を覚悟した。むしろこうなると慌てず騒がず、かえってのんびり仕事するようにしないと途中でモチベーションが切れてしまう。仕事の能率としては落ちるよな。と、思いながらペース配分を考える。しかもまだ水曜日だ。とりあえず7時で仕事を切り上げた。

「大西さん、ちょっと……」
上司に挨拶して帰ろうとすると、課長が景子を呼び止めた。
「佐野君のことなんだけど彼、来月で退職することになったから。」
「来月ですか?なんでまたそんな急に?」
「お父さんが倒れたそうなんだ。実家の店を継ぐ事になったらしい。」
「佐野くんの実家って……」
「コンビニだとよ。」
佐野の実家は北海道でコンビニを経営していたはず。フランチャイズなのになぜ東京の息子を呼び寄せてまで店を継がせなきゃならないんだろう。景子はだんだん腹が立ってきた。
「年末の繁忙期どうするんですか。」
「どうするもこうするも、やらなきゃならんだろう。いきなり新人入れたって、年末までに使えるかどうか。そうでなくったってこれからクソ忙しくなるのに、新人の育成に手間とられたってなあ。どっちにしても補充は来年春になるだろうから、しばらく大西さんの負担が増えるとは思うがよろしく頼むよ。」
「はい。わかりました。お先に失礼します。」
「まったく、ここで彼に抜けられるとはなあ。」
課長もかなり困っている様子だった。

 ロッカールームに荷物を取りに行くとリップクリームだけつけ直した。どうせもう帰るだけだから……化粧を直す気も失せていた。
 会社を出ると地下道に潜り込み、地下鉄の改札をくぐる。仕事帰りの人や遊びに行く人でごった返すホームに立っていると全身で疲れを感じてしまう。お腹すいたな。家に帰って何食べよう。
 やがてホームに滑り込んできた地下鉄に乗り込んだ。つり革につかまって窓に写る自分の顔を見ると、そこには不機嫌の塊のような女の顔があった。
 疲れておちくぼんだ目をパチッと見開き、ちょっと口角を上げてみる。やっぱり化粧直ししてから会社を出るべきだった。景子はバッグからスマホを出し、うつむき加減に顔を隠すようにして電車に揺られていた。

 佐野の退職日が近づくと、景子は佐野と一緒に外回りする機会が増えた。ある日午前中の外回りを終え、いつものようにランチを取りながら思いきって聞いてみた。
「佐野くんの実家ってどうしても佐野くんが後を継がなきゃいけないものなの?」
佐野は食事の手を止めて話し始めた。
「ぼくの町は北海道の上川町って小さな町なんですけど、日本で一番新しい酒蔵があるんです。上川町は大雪山の豊富な雪解け水と、米の生産地で……」
「それで酒蔵なのね。」
佐野はうなずくと、
「神川酒造って酒蔵なんですけど、プレミアムつけて販路も絞っていて、家の店はその限られた販路のうちの一つになっているんです。だいたい、いまどき新しい酒蔵の許可なんてそう簡単に下りないんですよ。やっとの思いでここまで来たのに、親父がこんな事になっちゃって。」
「町おこしに一役買いたいってところなのかな?」
「そうですね。ぼく、高校から札幌に出て大学は東京だったから上川には中学までしかいられなかったんです。」
「そうだったの。」
「親にはお金のこととかすごい迷惑かけてるし、なんかこれ以上放っておけなくて。すみません。一番忙しくなる時期に僕が辞める事になっちゃって。」
「それで……余計なことかも知れないけど、マサミちゃんはどうするの?」
「無理に連れて行きたくはなかったんですけど、結局一緒に行くことになりました。実は……出来ちゃったんです。」
「はぁ?それ、出来ちゃったんじゃなくて仕込んだんでしょ?」
「違いますよ!そんな大きな声で言わないで下さいよ!」
思わず周りを見回して苦笑い。
「だから言いたくなかったんだよなー。誰にも言わないで下さいよ。」
でも、マサミちゃんが退職したら放っといてもウワサは広がってくと思うんだけど……
「ごめん!誰にも言わないから。おめでとう。」
「ありがとうございます。ところで、神川酒造の酒本当に美味いんですよ。大西さんにも送りますからぜひ飲んでみて下さいよ。」
「私はあんまり飲めないから。」
「お正月は実家に帰るんでしょ?それまでには送りますよ。」
「口止め料のつもり?」
「いやそんな、まさか……」
 カフェの窓には、景子の穏やかな微笑みが写っていた。


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