【小説】複雑で高度な意思疎通(閣下の章33)

 言論だけに限らない。彼にはもう一つ、もしかしたらと思うところがあった。
 慣れた戦闘訓練の場。模擬剣のカッ、カン、と打ち合う音が響く。彼は防戦を主とするスタイルだ。カッ、相手の攻撃を受け止め、カン、と返す。決して下手な訳ではない。傷はつかないから。演習の限りにおいては、それでいいと思っている。
 だが、もし仮定が正しいとしたら。

―反撃してみるか。

 アリオールは、一歩踏み込み、思ったところ……今回は脇腹……に差してみた。するとどうだろう。驚く程に相手は無防備なのであった。

―成る程、やはり。

 その意外性に呆気に取られつつ、一人心中で喝采を上げた。

 道徳、或いは倫理と言っていいだろうか。軍の基調にあるそれの起源は、もし彼が推測する通りなら、彼自身も知っている。どころか、本場で修行したと言ってもよい。
 長い間に、忘れられたと思っていた。対立の素となるので、自らも封印していたその流儀。しかし、まだ確かに生きている。叩き込まれた魂だから。
 基礎と応用。ここぞと思った時に差す。それを繰り返すことで、相手の弱点や隙が分かるようになってきた。時には効いていない、失敗した、ということもある。それでも尚、狙いを絞れば、相手の苦しいところを捉えることはできる。
 試行して掴む。防衛にも気を配りながら、よく考えて、機を見て。複雑で高度な意思疎通。

 退屈な話ではなかったか。リュラビーは目を閉じている。
 再び屈んで、髪の毛に触った。乱れを直してやろうと思って。ふわふわとしていた。指でとくと、するすると抵抗もなく、太陽のような良い匂いがする。
 それを感じてしまった時、ものすごい禁忌に触れた気がした。そこで、何食わぬ顔をして、毛布を棚から出すと、娘の体に掛け、足先に回った。
 先程の香りは髪だけではなく、全体からほんのりと漂っていたことに思い至りそうになったのだ。確かに、顔を近づけていた。
 平静に努めて、靴を脱がせた。リボンのような紐の、かわいらしい深緑の靴。そこに嵌ったあんよは、黒のタイツに包まれた脚と、その上のチェック模様のスカートに繋がっているのだが……、強いて意識しない。寝苦しかろうからだ。頬が上気している。

 靴は彼女の足元に、そっと並べておいた。

 きっと彼女は大切に、育てられたのだ。両親に。そればかりでなく、周囲の人からも。
 自分でさえ、ほのかに楽しい気持ちになる。
 ここで、何かをしたならば、彼女ばかりでなく自分の気持ちまで傷付け、台無しにしてしまうだろう。
 口を尖らせ玩具をいじり回す様子。
 緊張しながらも無邪気に話しかけてくる様子。
 そして、安らかなこの寝顔。笑っているような。
 守りたいものは、これだったのかもしれない。もう子守唄は必要ない。自分に聞かせるために、アリオールは語った。

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