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パンデミック下の「二つの文化」

 コロナウイルスの流行が始まって以来、SNSは集団ヒステリーに近い状態になっています。気が滅入るので出来る限り避けるようにしていますが、それでもこの数日間にツイッターでC.P.スノー言うところの「二つの文化」を感じさせる発言をいくつか見つけました。

 スノーは、「私の信ずるところでは、全西欧社会の人びとの社会生活はますます二つの極端なグループに分れつつある」(スノー1967 :5)として、一方の極に「文学的知識人」が、もう一方の極には「科学者(その代表的存在として物理学者)」がいるとして、両者の対立について述べました。そして、その対立構造の多くは「誤解に根差し、危険でもある」(ibid:7)と指摘したことで、一連の論争が始まりました。

非科学者たちは、科学者は人間の条件に気がつかず、浅薄な楽天主義者であるという根強い印象をもっている。一方、科学者の信ずるところでは、文学的知識人はまったく先見の明を欠き、自分たちの同胞に無関心であり、深い意味では反知性的で、芸術や思想を実存哲学の契機にだけかぎろうとしている。毒舌について適切な才能を備えた人ならこれらの陰口をいくらでもつくりだすことができよう(ibid:6)。

 スノー自身は物理学者でしたが、第二次世界大戦の頃にはチャーチル政権下で官僚となり、戦後に小説家に転じた、いわば理系と文系両方の世界に深く足を踏み入れていました。

 2020年春の、「二つの文化」を感じさせるツイートとはといえば、例えば、以下のような発言がありました。

 「文系」としてはそこまで言われると、高校時代に理解できずに苦しんだ数学の授業を思い出して、冷や汗が出ます。ただ、Dr. Hideki Kakeya氏の言っていることは、他方の文化への偏見だとばかりは言い切れません。分野外でありながら持論を展開している自称専門家があまりに多いことに、苦言を呈しているとも取れるからです。

 京都大学の藤原辰史准教授(農業史・環境史)は、朝日新聞に「『人文知』軽視の政権は失敗する」として寄稿しました。

これまで私たちは政治家や経済人から「人文学の貢献は何か見えにくい」と何度も叱られ、予算も削られ、何度も書類を直させられ、エビデンスを提出させられ、そのために貴重な研究時間を削ってきた。企業のような緊張感や統率力が足りないと説教も受けた。
だが、いま、以上の全ての資質に欠け事態を混乱させているのは、あなたたちだ。長い時間でものを考えないから重要なエビデンスを見落とし、現場を知らないから緊張感に欠け、言葉が軽いから人を統率できない。アドリブの利かない痩せ細った知性と感性では、濁流に立てない。コロナ後に弱者が生きやすい「文明」を構想することが困難だ。

 この寄稿は、とりわけ強い反応を招いたようです。作家の橘玲氏は、嫌悪感をあらわにしたツイートを投稿しました。

 橘氏は、「名前は出しませんが」としていますが、藤原准教授の寄稿を指していることは明らかです。

 一方で、「二つの文化」両方の視点をあわせ持つ意見もありました。

 なお、引用したツイートは橘氏を除いていずれもアカデミアに身を置く方々です。

 理系と文系は、特にルネサンス期以降に人類が知の探究を進めた結果に、そして日本では明治以降に教育機関が整備されていく中で、時には政治の影響を受けながら理系・文系の定員が増やされたり減らされたりもして、分化してきた歴史があります(隠岐2018)。人類学(=人文科学;文系)の観点からは、それぞれの文化が形成されてしごく当たり前の状況にあるのですが、これら文化が双方の良い点を上手く絡み合わせることができずに、社会にそれぞれ存在しているとしたら、スノーの時代からあまり変わっていないのでしょうか。少なくとも日本は。

 「理系は自分の外を、文系は自分の内を探究する」とよく言われます。ならば、この両者を組み合わせたら、単独でいるよりも、世界を知ることに少しだけ近づくことになるのではないか。当プロジェクト名が「理系研究者のための文系伴走者」と称しているのは、この考え方からです。

【参考図書】
チャールズ・P・スノー、松井巻之助訳(1967)「二つの文化と科学革命」みすず書房。2011。
藤原辰史(2020)「『人文知』軽視の政権は失敗する」朝日新聞デジタル accessed on 30 Apr. 2020  <https://www.asahi.com/articles/ASN4S5V0DN4PULZU02H.html?iref=pc_ss_date>
隠岐さや香(2018)「文系と理系はなぜ分かれたのか」2刷。星海社