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自虐で生きてきた私が自分の大切さに気付いたよ


私がワーキングホリデーに行って気付けたことは山程あります。その中でも特に私の収穫となったのは、「自分の価値は誰にも劣らない」ということ。

私は学生の頃からイジられキャラとして生きてきました。どうも私の話し方は真似したくなるくらいスピードがゆっくりらしいし、リアクションが大きめとのことで、そういうポジションに辿り着いた、のかな。

かくれ繊細さんは、「自虐ネタで笑いをとりながらもひとりになると傷ついている」という一面があると本にも書いてありましたが、まさにその通り。

果たして、これは「イジリ」なのか「イジメ」なのか?と思ってしまうようなこともあって自分の存在価値に悩むこともしばしば。本人たちにはイジメの感覚がなくても、言葉や言い方に敏感な私は、たとえ冗談でもその扱いがグサッと刺さってしまうことがありました。

しかし、「その場の空気が壊れること」を最も恐れる私は、しっかりイジられ役に徹して自虐キャラに磨きをかけます。でもね、私はちゃんとあなたが私を見下していることを分かっている上で、イジられてあげていますからね。何も分かっていないおバカさんではないよ。という気持ちでいることも少なくありませんでした。性格悪いなぁ、私。と思いながら。

こんな日々を過ごしていると、どんな返しがウケて、どんなリアクションを求められているか、相手の性格タイプによってだんだんと分かるようになってくるのです。案の定そこで笑いがとれると、自分の役目を果たした気持ちになります。求められているリアクションをして、笑ってもらう。そんなことが板についちゃいます。

恋愛経験のない私は、恋愛ネタでいじられることが最も多かったです。オチに使われがちでした。いじられと自虐を続けた結果、自分の価値を自分で下げてしまっていたように思います。卑屈になっていきました。でも自虐する方が楽だったんです、恋人がいないことや経験がないことを「何で?」と追求されるくらいなら。


私は話にオチをつけて話せるタイプではないので、誰かが隣で私の言葉を料理してくれないと笑いが生まれない。そもそも笑いを提供しないといけないと思っていることがおかしいのですが、身を削ってでも「この空間を楽しくしなくちゃ」と思うようになっていました。それが自分の役目だと思っていました。

しかし、料理人にもやはり違いがあります。私という素材を上手に活かす方もいれば、殺す方もいらっしゃる。後者のたちが悪いところは、その本人はそれが面白いと思っているということ。でも、それはちょっと言い過ぎなのでは、、?と気付く第三者もいます。

個人的には、面白いの裏で誰かが傷付くということは出来るだけあってはならないと思っています。それはもはや面白くない。(誰も傷つかない笑いなんて存在しない、とオードリーの若林さんが言っていたので、出来るだけという言葉を枕詞に付け足しました。)

とにかくそんな風に料理されてしまっては、素材自らが自虐をするしかなくなります。第三者にまで気を遣わせないでよ、と思うので。自虐ネタは、いちばん手っ取り早く笑いが生まれて、その場を終わらせることが出来るので。

しかし自虐を続けた素材は、どんどん自信をなくしてしまうのです。「おいしいね」と声をかけ続けたお水と、「まずいね」と声をかけ続けたお水とでは、味が変わってしまうのと同じです。

自虐はいわば、呪いでした。私は自分で自分に呪いをかけていました。

それに、自虐をしておけば、自分以外は誰も傷つかなくて済むと思っていました。

けれど、違ったんです。私は間違っていました。

自虐って、慣れてしまえば楽だったんですけど、私を愛してくれる人を、悲しませちゃうことでもあるんですよね。私にも傷ついて欲しくない人がいるように、私も誰かの傷ついて欲しくない人、だったのです。


現在の職場に入る際、面接がありました。雑談のような面談だよと言われていたので何も考えないで気楽に望んだのですが、ガチガチな質問を繰り出されて驚きました。その中で「オーストラリアで現地の人と過ごして、印象に残っていることは何ですか?」という質問がありました。ロックダウンの思い出が強すぎて、、と思いながらも最初に浮かんできたのはこれでした。

「みんなが、自分を大切にして生きていることです。」

私は自己犠牲の精神がなければいけないとさえ思って生きてきましたが、自分のこと、自分の気持ちを大切にしてもいいということを、彼らと過ごす時間の中で感じました。自分を大切に出来るからこそ、自分の周りにいる人を大切に出来るんだと、彼らを見ているとそう思えました。

そんな風に答えました。みんな本当に自分のことを大切にしていました。だからそもそも自虐というお笑いはあまり通じません。ちなみにお笑い要素としてあるのは、皮肉です。つい癖で自虐してしまうと、「何でそんな風に思うの?あなたはこんなに素敵なのに!」と本気でそう伝えてくれます。一切笑いは生まれません。


褒めることが文化のような場所で、愛情を惜しみなく伝える世界で、1年間という時間を過ごせたことは、本当に私にとっていい経験でした。

自信を持って!と言われても、自信の持ち方ってどんな感じ?どうやって持つの?といった感じだった私が、「私なんて」と口にすることがなくなりました。

コロナ禍でロックダウンの日々、毎週日曜日の朝に来てくれるスウェーデン出身の女性がいました。私は優しい彼女と話すことが本当に大好きで、日曜日の朝を楽しみにしていました。私の最後の出勤日には、彼女は2度も来店してくれ、手紙とプレゼントまで渡してくれました。

「 You never underestimate the impact you had on us during this lockdown, your smile is contagious !」

あなたがこのロックダウンの間にもたらした影響を過小評価しないでね、あなたの笑顔は伝染するわ!と、本当に嬉しい温かいメッセージをくれました。最後の最後に、自信というお土産を持たせてもらった気がします。


だから、私もちゃんと伝えたい。普段から伝える方なんですけどね。「いいね」とか「すてき」とか。「そういうところ、好きだぞ。」と時々は語尾で照れを隠したりしながら。

凄いなと思うところを、凄いねと。素敵だねと。大切な人に、あなたが大切だよと。そしてもらった優しさに、ありがとうと伝えたい。

そのひと言が、相手にとって励みになることがあると、私は知っているから。私が励ましてもらったから。

人と関わる以上、相手には少しでも嬉しく楽しくあって欲しいし、せめて悲しい気持ちになって欲しくないという気持ちが根底にあります。そしてそれは、自分の価値を相手より下げなくたって出来ることだと、ようやく気付けました。

私は誰よりも凄くないし、誰よりも劣らない。相手も、自分も、大切です。



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